2017年11月26日日曜日



                                                                   スケジュール
◆12月13日(水)聖書の学びと祈り会
午前の部(10時半~12時)、午後の部(午後7時30分~9時)
ヨハネによる福音書から学んでいます。


◆12月16日(土) こどもクリスマス会 13:30~15:00
   小学生対象の教会クリスマス会です。クリスマスの讃美歌を歌ったり、クリスマスの
 お話、楽しいゲームなど。皆さんぜひご参加ください!


★次週の主日礼拝 12月17日(日)
メッセージ「主イエスよ、来てください」
  ヨハネの黙示録 22章16~21節   宣教者 酒井 朋宏牧師
第一礼拝 午前9時~9時50分
第二礼拝 午前10時50分~12時15分
*次週は英語礼拝です。日本語翻訳がスクリーンに表示されます。


◆教会学校 
午前10時~10時40分
小中科、高・青年科、国際青年科、成人科、入門科などのクラスがあります。




2017年11月26日(日)礼拝宣教
              「主を待ち望む」
               詩編130篇1~8節        酒井朋宏


本日は詩篇130篇の御言葉に共に聴いて参ります。詩編130篇には「都に上る歌」という見出しがついています。詩編120篇から134篇まで、この「都に上る歌」という見出しがついています。
「都に上る歌」とは、過越祭などのイスラエルの重要なお祭りの時に、イスラエルの人々がエルサレムへ上りながら歌った歌です。
そしてまたバビロン捕囚でバビロンに捕らわれていたイスラエルの人々が、解放されて再び自分たちの国の都エルサレムへ戻る時に歌われた歌であるとも言われています。
そのような嬉しい歌のはずですが、130篇の1節~2節を読むと、この詩を歌った詩人が大変苦しい状況に置かれていたことが分かります。
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」
“深い淵の底”とは、一体どれほどの苦しみであり悩みなのでしょうか。“底”とは、もうこれ以上の苦しみはないと思えるような絶望のどん底です。
 この詩人が具体的にどんな状況に苦しんでいたのかは分かりません。3節と4節では“罪”と“赦し”について語られていますので、この詩人は自分の犯した罪のために苦しんでいた、という解釈もあります。
しかし、たとえ私たちに、この時詩人が苦しんでいた状況が知らされたとしても、悩みや苦しみは、それを経験して感じている本人にしか分からないものです。
私たちは、悲しむ人、苦しむ人に同情したり、共感したり、また慰めてあげたいという思いを持ちます。しかし、苦しみは苦しんでいる本人にしか分からないものです。 
そして、人は、痛み、悩みや苦しみそのものよりも、“自分の痛み苦しみを完全には分かってくれる人が他にいない、自分の苦しみに寄り添ってくれる人が傍にいない”時に、最も苦しみを感じるのではないでしょうか。
この詩人は、“主よ、私はあなたを呼びます。私の声を聞いてください”と主に呼びかけています。ここには、“主は私たちの悩み苦しみを分かってくださるお方であり、そのような主がおられる”という信頼と希望が表されています。
他人には完全にわからない私たちの苦しみも、主は全てを知っていてくださる、という信仰であり、その信仰からくる平安です。
“絶望の底”、私たちは出来ればそんな状況に陥りたくはありません。しかしこの詩篇の御言葉から私たちは、たとえ深い淵の底のような状況にあっても、私たちには祈ることの出来るお方(神)がはっきりと知らされている、と教えられるのです。
聖書を通して私たちに知らされたイエス・キリストの神に、私たちは呼びかけ、祈ることができる、これは大きな希望です。
嘆くときにも祈ることができ、そのような私たちの祈りを聞いてくださるのは十字架と復活の主イエス・キリストであると、知らされていることは、なんと幸いなことでしょうか。
 イエス・キリストは、私たちが絶望の底にいるときにも私たちの祈りを聞いてくださるお方である、と私たちはなぜ確信できるのでしょうか。
それは、イエス・キリストご自身が、絶望の底にまで下られたお方であるからです。イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを叫ばれました。(マルコ15章34節)
神の子であるイエス・キリストが、天の父なる神からの断絶を経験されたのです。イエス様は私たち人間が感じるどんな絶望よりも、更に深い絶望をご自身で経験され、深い底の底にまで、下られたお方なのです。
ですから、どれほど深い底に私たちが落ち込んだとしても、主イエスは私たちと共におられるし、私たちの苦しみを知っていてくださるのです。
詩編139篇8節もこう言っています。
 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府(よみ)に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。
私たちの主は天におられるお方です。しかし、主は同時に“陰府(よみ)”にもおられるのです。“陰府(よみ)”(depth)とは、ある英語の聖書では“地獄”(hell)と訳されています。
主は天にもおられるし、地獄にもおられる。つまり、どんなところであっても、神の御手の力が及ばない領域は存在しない、ということです。
“天にも昇るような心地”という言い方があります。私たちがとても嬉しい時、幸せだと感じる時です。また全てが順調でうまくいっていると思える時。そのような時は、人が逆に自信を持ち過ぎて傲慢になって、神の恵みを忘れそうになるときかもしれません。
しかしそのようなときにも、神はもちろん私たちと共におられるのです。神は私たちが高ぶることがないように戒めてくださるお方です。
そして逆に、私たち人間が“もう神などいない”と思ってしまうような絶望の状況であっても、聖書は“神は必ずそこにもおられる”と言っているのです。どんな時にも、どこにでも神はおられる、この信仰に私たちは立ち続けたいと思います。
130篇2節の言葉をもう一度見てみましょう。
“主よ、この声を聞きとってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください”。
 “この声を聞き取ってください”という文は、ヘブライ語聖書のニュアンスに忠実に訳せば、「声を聞いてください」というよりも「私の声“の中に(で)”聞いてください」となります。
それはただ聞こえる私の言葉だけではなく、私の心の中にまで入り込んで、私が自分の言葉では表現出来ていない呻(うめ)きをも聞き取ってください、と祈っているのです。
私たちの主は、私たちの“か細い声”を聞きとってくださるお方であり、私たちの声の中の声までも聴いてくださる方です。
ですから私たちは嘆きの時に、言葉にならないような祈りであっても、どう祈ってよいか分からないような時にも、主にむかって祈ってよいのです。
ローマの信徒への手紙8章26~27節
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
神は私たちの心の叫びを聞いてくださっています。私たちは嘆きの中にも“私の主”と呼びかけて祈ることのできるお方、真(まこと)の神を知らされています。ここに信仰による幸いと慰めがあります。
 
 次に3節で詩人は“主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう”と告白しています。
この詩人は深い淵の底、絶望のような状況にあってもなお神に祈りました。そして詩人は神の前にはどんな罪も隠すことができないことを知っていました。
神は私たちの全ての罪を見抜いておられる方であるから、神の前では何も隠し通す必要がない。そのように神との正直な関係に身を置いているのがこの詩人なのです。
私たちは人に対しては、自分の罪の部分、人に対して知られたくない部分を見せないで隠しておくことが可能です。誰にでもそのような部分があると思います。しかし、私たちは主に対しては、自分の罪も何も隠してはおけないのです。
 「あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ誰が耐ええましょう」
あらゆる罪を見逃されないのが主であるなら、私もその裁きを逃れ得ない、無罪放免とはならない、と詩人は告白しています。
ここで、“何も隠せないとは、神様とは何と恐ろしい方か!”と皆さん思われますか?
いえ、それは恐ろしいことではないのです。むしろ私たちが主の前では本当に自由になれるということです。なぜならそれは私たちが主の前には何も隠さずに本当の自分のままでいられるということだからです。
 キリスト者となってからも、“自分が罪人だ”という事はなかなか受け入れがたいことではないかと私は思います。
それは私たちがどうしても私たちの目に見える罪、いわゆる一般の“悪い事”のレベルで罪を考え、その罪を他人のものと比較するからです。
“あのような罪に比べれば自分の罪は大したことはない。。。。”などと、私たちは人との比較によって自分を判断することが多いと思います。
しかし、聖書を読み、御言葉を通してイエス・キリストに出会わされるということは、イエス様との出会いによって私たちの深い罪に真剣に向き合わされることです。そして、その私たちの罪はイエス様の十字架によって赦されていることを知るのです。
 自分が罪人だと認めることは、難しく辛いことだと私は思います。本当の自分を知り、本当の自分を認めて、受け入れるということも、難しく大変なことではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストを通して罪の部分も含めた本当の自分を知るとき、私たちは、そんな私とも、どのような時にも共にいてくださる神がおられるという恵みに、益々感謝ができるようになるのです。
6節をお読みます。
「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして」
“見張り”とは、当時壁で囲まれた町を夜に守る兵士、または商人の一団(隊商)の中で、仲間を敵や獣の襲来から守るため、夜寝ないで見張りをしていた人のことです。
いつやってくるかもしれない敵、危険な獣の襲来の可能性に大変な緊張を強いられる大変きつい仕事でした。
 私はこの“見張り”から、イエス様誕生の知らせを最初に知らされた羊飼いたちの姿を思い浮かべました。
ルカによる福音書2章で、天使から救い主イエス様誕生の知らせを最初に聞いたのは、夜通し羊の群れを守っていた羊飼いたちでした(ルカ2章8節)。羊を守るために、夜も寝ないで群れを守っていた“見張り”であった羊飼いたちです。
羊を奪おうとする強盗や野獣が襲ってくるかもしれないという緊張の夜の中、朝を待ち望んでいた彼らに、救い主がお生まれになった、という知らせが、他の誰よりも先にもたらされたのです。
 私たちも、日々の生活での疲れや緊張の中にも、見張りが朝を待つように“必ず朝は来る”という希望をイエス様から頂いて、主を待ち望みたいと思います。
そしてこの詩編130篇は
「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」という言葉で終わります。
ここで、“私が主に祈ることができる恵み”、そして“私の罪が許されたという恵み”が、この詩人個人のものから、彼が属する共同体であるイスラエル全体に対しての“主を共に待ち望もう”という呼びかけへと変わっていきます。
私たちは他者と一緒に、主に希望を置き、主を待ち望むのだとの呼びかけです。主に祈ることができる、主は私の罪を赦してくださっている、この恵みが私だけのものとならず、他の人へも与えられるようにと、私たちは祈る者となるのです。
私が信仰を持つ以前に感じていたのは、“信仰とは個人的なものであるべき”ということでした。ですからキリスト者というのは非常におせっかいな人達であって、人を煩わす人達に見えました。
“あなたの信仰は尊重するから、私のことは放っておいてほしい”、私はそのように感じていました。
しかし今は、“私たちキリスト者は、信仰による喜びと希望を他者と共有したいと望む者である”と思っています。
人と一緒にということは時に困難かもしれません。自分の心の中だけのことにしておいたほうが楽かもしれませんが、実はそうではないのです。私たちが主に置く望みは、ただ個人のものだけしておくことはできないのです。
自分が罪赦されたという感謝と喜びが私たちにあるのならば、すべての罪から私たちを贖ってくださる方がおられるという福音を他の人たちに伝えていく者に私たちはならざるを得ないのです。
  「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)と言われたイエス・キリストが私たちを救うためにお生まれになりました。ルカによる福音書2章でシメオンは、“イスラエルの慰められるのを待ち望んで”いました。
そのシメオンは神殿で幼子のイエス様を見て「わたしはこの目であなたの救いを見た。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っています。(ルカ2章30-32節)
シメオンの望みはイスラエルの民全体の望みでした。そしてその望みが実現しました。
個人の嘆きと祈り、そして救いの出来事が、私たち全員の出来事として共有される、そのような出来事がまず私たちの教会で起こることを願いたいと思います。そのために教会はあるのです。
 そして私に知らされたこの神の恵み、わたしたちの教会に知らされた神の恵みは、決して私たちだけのものとはしておけません。主の救いを必要とする人達が、一人でも多く福音を知ることができるように、教会に集ってくださいますようにと祈りましょう。
 来週から、イエス・キリストを待ち望むアドベンド(待降節)が始まります。神様が私たちにして下さったこと、そして今もしてくださっている恵みの一つひとつを数えて、イエス様が私たちの世界に来てくださったことを感謝するクリスマスに備えて参りましょう。
お祈りいたします。
 

2017年10月23日月曜日


2017年10月22日(日)
                                                                                                         別府国際バプテスト教会 
                                                        マタイによる福音書11章2~6節
                                                             「福音を告げ知らされる」

今日の箇所はマタイによる福音書11章の2節から6節までです。前の章の10章は、イエス様が12人の弟子を選んで彼らを派遣する場面でした。
福音宣教の働きを、イエス様は弟子たちに委ねて、そのために必要な力も彼らにお与えになって、彼らをそれぞれの場所へ遣わされました。
 今日の箇所の一節前になる11章の1節を読みます。
「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」
12弟子を選んで彼らを派遣した後も、イエス様は変わらずご自身で宣教の働きを続けたことが分かります。
つまり「もう宣教の仕事は弟子たちに任せた。必要な知識も能力も彼らに授けた。だから自分は一休み」ではなくて、弟子を派遣した後も、イエス様ご自身も、依然として福音宣教のために働き続けたのです。
このことから、イエス様は、たとえ私たちの目には見えなくても、今も聖霊として常に私たちを助け、今も生きて働いておられると私たちは信じることができます。
そして私たちは、いつも主から派遣されて日々を生きるという信仰姿勢を失わないようにしたいと思います。この礼拝から、私たちは毎週、新しい週の生活へ遣わされていくのです。
 さて、今日の箇所は新共同訳聖書と英語訳(NIV)には「洗礼者ヨハネとイエス」という小題がついています。バプテスマのヨハネは、当時の普通の人々だけでなく、イエス様にも大きな影響を与えた人物でした。イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けています。
 マタイによる福音書3章に、イエス様がガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来て、バプテスマを受けたことが記されています。その時、ヨハネは(ちなみに、このヨハネは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネとは違う人物です)、
「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3章14節)と言います。イエス様は「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(同15節)と言われます。
私たちの主イエス・キリストは、徹底的にご自分を低くして、ご自身が神であるのに、人からバプテスマを受けるという驚くべきことをなさいました。
 バプテスマは“神から離れて生きていた(罪ある状態)古い自分に死んで、復活の主と共に新しい自分に生まれ変わる。これから神と共に歩む”という決意を表すことです。
神の前に自分の身を低くしてバプテスマを受けることの重要さと、そしてその喜びを、イエス様ご自身が私たちに見せてくださったのです。
 そして今日の箇所では、イエス様にバプテスマを授けたそのヨハネが、囚われの身となって牢の中にいます。今日の箇所よりも後のマタイ14章に書かれていることですが、領主ヘロデが自分の兄弟(フィリポ)の妻(ヘロディア)を自分の妻としました。
それに対してヨハネがはっきりと「それは律法でゆるされていない」と指摘をしたので、ヨハネはヘロデの怒りを買って投獄されてしまったのでした。14章では、バプテスマのヨハネが最後は首を切られて殺されたという、大変痛ましい話が伝えられています。
  11章2節「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。』」。
このヨハネの言葉から、とても力を無くして落ち込んでいるヨハネの姿を私たちは想像することができます。たぶん、座って下を向いて、そして精一杯絞り出すような声で、話したのではないでしょうか。
 “あなたこそが救い主だと信じていますが、今自分はなぜこのような囚われの身にあるのでしょうか?正しいことをしている自分がなぜ?あなたはこの世の不正を正してくださる方ではないのですか?”
などと、ヨハネは考えていたのではないでしょうか。時の権力者も恐れず、はっきりと“悪いことは悪い”と声を上げる勇気を持っていたヨハネでも、これほどに弱くなる時があったのです。
わたしたちも、イエス様を信じてキリスト者となっても、それで全ての事が順調にいくわけではありません。場合によっては、神への信頼が揺らいで“神様、あなたは本当にいらっしゃるのですか?
あなたが本当にいらっしゃるのならば、どうしてこういうことが起こるのですか”と疑問に思うほどに落ち込むことが、私たちにもあると思います。
しかし、イエス様から“およそ女から生まれた者のうち、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった”(マタイ11:11)とまで言われた、このヨハネでさえ、これだけ自信を無くして弱音を吐いたのです。
私たちが、同じように神への信頼が揺らぎそうになることがあっても、当然と言ってよいかもしれません。
しかしヨハネは、そのような境遇の時に、キリストのなさったこと(the deeds of the Messiah)を聞きました。絶望のような状況の中で、イエス・キリストがなさっている業について聞いたのです。ここに暗闇の中にも光が差し込むのです。
それは幸いなことでした。私たちが、牢の中に閉じ込められているような時にも、私たちはキリストの業について聞くことができるのです。ヨハネは囚われていますから、ヨハネの弟子たちが、ヨハネにキリストのなさったことを伝えました。
キリストのなさったことを自分に伝えてくれる弟子たちがいた、これはヨハネにとって大変幸いなことでした。私たちもこのように、牢に囚われているような人たち、福音を必要としている人たちに、神の業を伝える者(メッセンジャー)となる必要があります。
ヨハネの問いかけにイエス様はこう答えます。
4~6節
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである」
 ここで、“見聞きしていること(what you hear and see)”の“聞く”という言葉に注目したいと思います。
 「聞く」と言うと、私は自分の牧師が言っていたことを思い出します。
私は先生にこういう質問をしたことがあります。「牧師にとって一番必要なことは何でしょうか?」と。そしたら先生は少し考えた後、
「そうですね。教会には色々な人が来ます。そしてその人たちが色々な話をしにきます。教会に来る方々の話すことを『聞く』、それが一番重要だと思います。」
人から相談を受けたり、何か対処しなくてはいけないことが教会で起きても、すぐにアドバイスしようとしたり、すぐにそれに何かの対処しようとする前に、まずは相手の言うことをしっかりと聞く。
そして状況をしっかりと見る、という姿勢が大事なのだと、先生の話から私は思わされました。そして何よりも私たちは、まず神の言葉、聖書の御言葉に聞くという姿勢をいつも持っていることが大切です。
そして、
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
という言葉については、どう考えるべきでしょうか。
目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、そして耳の聞こえない人が癒される。そして死者が生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる。これらは全て旧約聖書のイザヤ書に書かれている言葉です。
イザヤ書にそのようなことが書かれている背景には、多くのユダヤ人たちが、自分たちの国を征服したバビロン帝国へ囚われていった“バビロン捕囚”の出来事と、その捕囚からの解放の出来事があります。
“目が見えるようになる”、“歩けるようになる”、“耳が聞こえるようになる”とは、身体的な癒しだけではなく、もっと根本的に、何かに囚われていた状態から解放されて、本当の自由を得るということが意味されています。
イザヤ書61章1節にこう書いてあります。
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために
「(あなたたちが)見聞きしていること」(マタイ11章4節)、それはすなわち、良い知らせ(福音)を知らされた人たちが、自分を縛っていたものから解放され、本当に自由になっているということです。
 イエス様は、“福音を知らされた人たちが真の解放を得ている。それは神の業である。そのことをヨハネに伝えなさい”と言うのです。
 そして「(あなたがたが)見聞きしていること」の“見る”、”聞く“は現在形で書かれていることにも注目したいと思います。
私たちは“今起きていること”を伝えるのです。過去にあったこと、これから起こるであろうことではなく、今実際にわたしたちが見て聞いていることを伝えなさい、とイエス様は言うのです。
 なぜなら、私たちは今という時を生きているからです。過去を振り返って反省し、現在に活かすことも大切です。未来を思い描いて、目標やビジョンに向って生きることも大切です。
しかし私たちは、過去に生きるのでも未来に生きるのでもない。今という時に生きているのです。私たちが伝えるイエス・キリストの福音とはまさに“今ここで起きていること”なのです。なぜなら神は今ここで働いておられるからです。
教会では今、何が起こっているでしょうか。毎週の礼拝で、また私たちの信仰の交わりを通して何が起きているでしょうか。教会で神の言葉が聞かれて、私たちの本当の解放が起きているでしょうか。
教会では神の言葉が聞かれています。教会学校で、礼拝の中での聖書朗読で、讃美歌で、そして宣教を通して神の言葉が聞かれます。私たちは、そのようにして聞いた神の言葉に応答して生きる決意を、“今”新たにされているでしょうか。私たちの魂は、福音によって生き返っているでしょうか。
私は牧師として、聖書の伝えるイエス・キリストの福音がこの教会でいつも告げ知らされるようにと、精一杯祈り、宣教をしたいと願っています。
 教会は、力を失っていた人が、御言葉によって力を受けて、立ち上がることができる場所です。そして私たち信仰の兄弟姉妹同士が、信仰に基づいて、お互いに励ましあって元気づけられる、弱っている時には支え合う場所です。
そして本当にそういうことが起きているのならば、私たちは教会で起きているそのことを、他の人にも伝えるのです。御言葉を聞き、神の業を見るとは、すなわちその恵みを他者にも伝える(すなわち伝道)ことにつながるものなのです。
  
最後に、今日の6節の「わたしにつまずかない人は幸いである」という言葉について考えましょう。この「つまずく」というギリシア語の“スカンダリゾー(skandarizo)”という動詞は“信仰を拒む”、“信仰から離反する”、“罪を犯す”という意味も持つ言葉です。
マタイ13章21節の、“種を蒔く人の譬え”でも、この言葉が使われています。
マタイ13章22節~21節
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいて(skandarizo)しまう人である。
神の言葉を喜んで受け入れるけれども、試練が来たときには信仰から離れてしまう人の譬えです。私たちは、“自分はそうではない”、“自分はけっしてつまずかない”と言うことができるでしょうか。
 イエス様の弟子たちは、主が捕まった時、みんな逃げてしまいました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)と言っていた、イエス様の最初の弟子のペトロもです。
ペトロはイエス様のことを「わたしはあんな人は知らない」と言いました。(これには、イエス様が、自分が期待していたような救世主のイメージとあまりに違ったからという理由もあります)
  “わたしにつまずかない人は幸いである”。今日私たちはこの言葉を、“あなたはつまずく時がある。しかし、それでもわたしはあなたを決して見捨てない。そんなあなたの弱さのために私は十字架にかかった”というメッセージとして聞きたいと思います。
どんな状況にあっても、“神様、あなたは本当いますか?”とさえ、私たちが疑問に思ってしまうような時にも、神は変わらず私たちと共におられ、わたしたちのそんな疑問さえも包み込んでくださっています。
 “絶対あなたから離れることはありません”と思っていても、恐れや不安に負けてしまう私たちです。「わたしにつまずかない人は幸いである」というイエス様の言葉は、
「自分の強さに寄り頼んで生きる必要はない」、「試練が来るとつまずいてしまう、そんな自分の弱さを受け入れて、主なる神に寄り頼みなさい」というメッセージです。
福音による本当の解放が、今実際に私たちの教会で起きているかどうかを、信仰の目で見て、信仰の耳で聞き、そしてまた、そのような本当の解放が福音によって教会にいつも起こされますようにと、私たちは祈り続けていきたいと願います。
お祈りを致します。