2017年10月10日火曜日

今週のスケジュール

◆10月18日(水)聖書の学びと祈り会
午前の部(10時半~12時)、午後の部(午後7時30分~9時)
ヨハネによる福音書8章1~11節から学びます。


◆10月20日(金)午後7時~
フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF)
*今週のFFFは新入生歓迎パーティーです!
 フライデー・ファミリー・フェローシップは、当教会を会場にして毎週金曜日の夜に開かれている超教派クリスチャンを中心にした国際交流の集まりです。歌やゲーム、信仰に関するディスカッションなどがあります。教会、国際交流に興味のある方、どなたでもご参加ください。


◆主日礼拝 10月22日(日)
メッセージ「福音を告げ知らされる」
マタイによる福音書 11章2~6節
宣教者 酒井 朋宏牧師
*次週は合同礼拝です。
 礼拝 午前10時50分~12時15分




◆各会ミーティング 10月22日(日)
午前10時~10時40分
小羊会、少年少女会、青年会、女性会、男性会があります。
(入門クラスと国際青年科は通常通りの教会学校です)

2017年10月2日月曜日

==牧師就任按手式==


次週10月8日(日)午後4時より、酒井朋宏牧師「就任按手式」が開かれます。
酒井牧師は既に今年4月より、当教会の牧師に就任しております。この度の就任式は
近隣教会の皆様にもお集りいただいて、共に主の祝福を祈り、分かち合う機会となります。


*無事終了いたしました。大勢の来会者者に恵まれ祝された時となりましたことを感謝いたします。

2017年9月25日月曜日


2017年9月24日
別府国際バプテスト教会
コリントの信徒への手紙一1章10~17節
「キリストによる一致」

 昨日から、教会のファミリーキャンプが開かれています。礼拝の後も、今日の午後3時過ぎまでキャンプのプログラムが続きます。昨晩は何人かのメンバーが教会に泊まりました。このキャンプを通して、私たちの信仰の絆と交わりが、より深められますようにと私は願っています。
 
さて、今年度の私たちの教会のテーマは、「神にあって共に成長する」 "We grow together in God” です。そしてそのテーマの元になる聖書の箇所はコリントの信徒へ手紙一3章7節です。
「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。

 少し前まで、我が家でミニトマトを育てていました。(最初は子どもたちが育てるというので買ってきたのですが、段々私が毎日水をやるようになりました)暑い夏の日に、少しでも水をやるのを忘れると、すぐに葉がしぼんで萎えてしまいました。
そして水をやると、見違えるようにまた力を取り戻して、茎と葉がしっかりと伸びる様子を見ることができました。植物、作物を育てるのに、水をやることは欠かせないと実感いたしました。
 また以前、ある予備校の先生がテレビでこう言っているのを聞いたことがあります。その人は大変有名な先生で、その人の授業を受けると、多くの学生が成績を上げて希望の学校へ進むことができる、と評判の英語教師でした。

「わたしがやっていることは、ただのサポート役です。私の授業を受けて、その学生の成績が上がったのならば、それは80%その学生自身の力であり努力です。私は勉強のコツややり方を教えるだけで、補佐(サポート)役をしたに過ぎないんです。」
 確かに、どんなに優れたコーチや、人をやる気にさせることができる先生でも、最終的に勉強や練習をして、成績を上げたり技術を身に付けたりする努力は本人にしかできないものです。
 つまり、“成長するかどうかはあくまで本人次第”、これが世の中一般の考え方です。これは非常に個人主義的な考え方とも言えると思います。その人がどのような生き方をするか、成長するかどうかは、その人個人の選択である、ということです。
 しかし、聖書はこういうのです。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。
植える者も必要です。水を注ぐ者も必要です。自分自身で成長しようとする本人の努力も必要です。しかし“成長させてくださるのはあくまで神”、キリスト者はいつもこの点をしっかりと覚えておかなくてはならないのです。
このことが分かっていれば、私たちはたとえ何かがうまくいかないとしても、それで自分自身を卑下(ひげ)したり、また逆に何かに成功したからと言って、自信を持ち過ぎて傲慢になってしまうことから、私たちは自由になることができるのです。
そして私たちは1コリント3章のその聖句から「共に成長する」ことが大切だと考えました。クリスチャンの成長は個人的なものではないのです。教会の中で、私だけが成長するとか、一部の人だけが成長するのではなくて、「共に成長する」ことが大切なのです。なぜ“共に”でなくてはならないのか、そのことを今日は考えたいと思います。
そして、もうひとつ、今年度の私たちのテーマである「神にあって共に成長する」は、私たちの教会の2013年から2022年の10年間の主題である「すべての民を主イエスの弟子に」に基づいています。(これが、今回のキャンプの主題でもあります)

「すべての民を主イエスの弟子に」これは、マタイによる福音書28章19~20節のイエス様のいわゆる宣教大命令(Great Commission)の言葉です。
私は今日の聖書箇所を黙想して宣教を準備するあいだに、今年のテーマの「神にあって共に成長する」と、10年間の長期テーマであり今回のキャンプの主題でもある「すべての民を主イエスの弟子に」との間には、密接につながる神の教えがあると改めて示されました。そのことも今日一緒に皆さんと分かち合いたいと思います。
 
 さて、コリント人への第一の手紙の今日の箇所をみますと、明らかに当時のコリント教会の中で問題が起きていたことが分かります。

1章10~11節
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」

 コリント教会では、いわゆる“仲間割れ”が起きていたようです。「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と、教会の人々がグループを作って、それぞれ自分のグループが、または自分のグループの先生のほうが優れている、などと言って争っていたようです。
パウロの言う「皆勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」all of you agree with one another in what you say(10節)とは、どういうことでしょうか。
これは、あらゆることに皆がいつも同じ意見を持ちなさい、ということでしょうか?何かを決めるときも、皆が同じ意見を持って、違う意見や考えが出ないようにしなさい、ということでしょうか?
私たちは、プロテスタント教会の中でもバプテストと言われる教会です。バプテスト教会の特徴は色々ありますが、その一つに民主的教会運営が挙げられます。民主的な教会運営で大切なのは、信徒一人ひとりの意見が平等に聞かれることです。たとえ少数の意見であってもきちんと聞かれることが大切です。
そして大切なことは皆で祈り、話し合って決めることがとても重要だと私たちは考えます。(祈ることが大切です。まず祈ることがなければ、いくら民主的に話し合っても、私たちは教会ではなくなってしまいます)祈りと話し合いのプロセスを通して神の御心を探るのです。

 ですから、何かについて話し合うとき、何かを決めるときに、色々と異なる意見が出ることは悪いことではなく、むしろそれは良いことなのです。そのために合意に達するのに時間がかかっても、私たちは合意形成のプロセスを大切にします。
パウロは同じコリント1の11章19節でこうも言っています。
「あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません」
 “適格者”(英語では which of you have God’s approval)と訳されているギリシア語の“ドキメー”(dokimeh)という言葉には「吟味された者」という意味があります。

ですから、神の御心が何であるのかが吟味されて明らかになるには、時には意見の違いも、仲間争いさえも必要だろう、とパウロは言うのです。ただし、そこには礼儀をわきまえた、お互いに相手を敬う気持ちを持つことが大切であることは言うまでもありません。
しかし、色々な意見がでること自体は良いのですが、コリント教会の信者たちは決定的な間違いを犯していました。
「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と言いながら、自分たちが一体誰によって結びつけられているのか、教会の頭が誰であるのかを見失っていたのです。(「キリストに」と言っていた人も、このパウロの書き方からすると、イエス・キリストを正しく見ていなかった人たちでしょう)
私たち教会を一つに結びつけているもの、それは人間の誰か優れたリーダーや先生ではないのです。パウロでもなく、アポロでもなく、ケファ(ペトロ)でもないのです。
私たちを一つに結びつけるもの、それはキリスト以外にあってはならないと、聖書は言うのです。そして、そのキリストとは十字架につけられたお方です。

十字架につけられたキリストが私たちを限りなく愛し、私たちの罪を赦してくださった。その恵みによって私たちは救われ、その恵みによって私たちはこうして結ばれているのです。
だから私たち教会は「心を一つにして固く結び合う」(10節)のです。キリストによってです。

1コリント12章12~13節をお読みします。
身体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。
教会に繋がるキリスト者であれば、個人的に自分の信仰だけが成長するということはありません。なぜなら、私たちはキリストによって結びつけられた一つの体であるからです。

最初に“個人主義”という言葉を使いましたが、現代では非常に個人主義的な考えが発達して、お互いに干渉し合わない、他人のことは放っておくから、私のことも放っておいてくれ、という考えが強いかもしれません。
しかしキリスト者同士はそうであってはならないのです。“お互いに適度に距離を置いて、まあ適当に”という関係であってはならないのです。
なぜなら私たちはキリストを頭とする一つの体の部分部分だからです。同じ体のどこか一部だけが、別の部分とは離れて関係なく成長する、ということはあり得ないのです。
確かに、他人の自由や独立性が侵害されるような干渉は許されませんが、キリスト者の集まりは「心を一つにして固く結び合う」ものであり、お互いが共に成長することなく、誰か一人だけが成長することはない、ということを覚えたいと思います。

さて、マタイ28章19~20節を読んでみましょう。「宣教大命令」です。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 「すべての民」とは、当時のユダヤ民族を越えたあらゆる民族のことです。今、私たちの教会、BIBCには色々な国の人たちが礼拝に出席してくださっています。素晴らしいことです。

海外の方に限らず、日本の方も、特にこの地域に住む色々な人が来ることのできる教会に私たちの教会がなることができればよいな、と私は願っています。“すべての民をわたしの弟子にしなさい”とは、“福音は全ての人に伝えられねばならない”ということだからです。
そして私たちキリスト者は日々生活をしています。私はそのことを意識して、毎週礼拝の最後の祝祷で、「今週それぞれの生活の場へと遣わされていく私たちひとりひとり」という言葉で祈っています。
 
たとえ、聖書を持って遠く海外まで宣教旅行には行かないとしても、私たちが教会に繋がって礼拝を大切にし、教会の中での兄弟姉妹の交わりを喜んでいるのならば、その喜びは私たちの教会の外での普段の生き方にも自然と現れるはずではないでしょうか。

 その私たちの生き方自体が伝道となるのです。私たちが教会の中で共に御言葉に聞き、お互いをイエス・キリストによって結びつけられた同じ体の一部として大切にし合うことで、互いの信仰が強められます。その教会から日々の生活に遣わされること、イエス様に従うことを生活の中で実践すること、それが伝道となるのです。
 最後に、今日の聖書箇所の言葉をもう一箇所読んで宣教を終わりにしたいと思います。
1コリント1章17節
「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」
 「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではない」とパウロは言います。これは、バプテスマは信仰者にとって最終的な目標ではないということです。

 バプテスト教会では、バプテスマという儀式そのものによって人が救われるのではなく、聖霊の導きによってイエス・キリストを救い主と信じた信仰者が、これからイエス・キリストに従い、教会の一員として神に仕えていく決心を表明する、そのような信仰の応答的行為であると理解します。
 ですから、バプテスマを受けた私たちひとり一人も継続的に、主の弟子として成長し続けることが求められるのです。
 またパウロは“福音を告げ知らせるのに言葉の知恵によらない。キリストの十字架がむなしいものになってしまわないために。”とも言います。
わたしは牧師として、正しく神の言葉を語ることができるようにと祈り、できるだけの祈りと準備をして宣教に臨みます。そして牧師でなくても、キリスト者は福音を人に伝えるために、それぞれの言葉で伝道をすると思います。

しかし、どこまでいっても宣教の力強さは、人間の言葉の巧(たく)みさとか、話し方の技術とか、伝える人の人格などにはよらないのです。
 人にイエス・キリストを信じさせ、聖書の御言葉に私たちを従わせる力は、あくまで御言葉自身が持つ力であり、聖霊の力なのです。
 ですから私たちはあきらめずに、希望をもって福音を証し続けましょう。聖書の言葉がどれほど私たちを力づけるものであるか、イエス・キリストの限りない愛がどれほど私たちを慰め、私たち教会の一人ひとりを互いに結び付けているのかを、世の中に向かって証し続けていきましょう。
 キリストによって結びつけられた私たち教会の伝道の業が神に大きく用いられて、福音はきっと前進すると、私たちは信じてよいのです。
このファミリーキャンプを通して、お互いの絆を強め合い、私たちが共にいることの意味と喜びを、再発見できることを願っています。(酒井朋宏)