2013年6月25日火曜日

大名クロスガーデン

福岡国際キリスト教会牧師就任式に出席した後、天神エリアにある大名クロスガーデンを訪れました。新築の素晴らしい教会です。
https://www.facebook.com/daimyocrossgarden




福岡国際キリスト教会牧師就任式

6月23日福岡市にある福岡国際キリスト教会にて牧師就任式が行われました。当教会から吉田牧師と住田兄が出席しました。吉田牧師が理事として連盟代表挨拶を行いました。

篠原健治主任牧師
木村公一協力牧師
吉田真司牧師






2013年6月23日日曜日

おかえりなさい

2013年6月16日の宣教より

ルカ15:11〜32

この放蕩息子は「遠い国に旅立」(15:13)ったのでした。この「遠さ」は、物理的なことだけでなく、関係の「遠さ」を現しています。内面的にも父親と関係を切ってしまった状態です。「関係を切ることは、自分の中にいる相手を殺してしまうことだ」と言った人がいます。なるほどその通りです。神の存在を自分の中から抹殺して生きている人間、それがこの放蕩息子の姿です。しかし人間は、神の存在があって初めて人間であるのです。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)とある通り、人間は、神とは切っても切り離せない存在なのです。17節に「彼は我に返って」とあります。「我に返って」というのは、本当の自分を取り戻す、ということです。そしてその本当の自分とは、父なる神様の方向に向き直る事、父を父として生きる、ということです。これぞまさに回心です。主イエスが来られた理由、それは、私たち人間を父なる神様のもとに導くため、帰らせるためです。主イエスは、そのための帰り道なのです。私たちが父なる神様のもとに帰り、「我が子よ」と抱きしめられるのは、主イエスの命の犠牲があってこそなのです。私たちがこの譬え話を読んで感動するのは、これを話しておられるお方が、他でもなく主イエス御自身であるからです。皆さん、「主イエスにおいておかえりなさい!」・・・これが、聖書の福音です。主イエスにおいて私たちは御国に入ります。主イエスにおいて私たちは神の子となります。そしてそれが人間の本当の幸いであり、まことの人間となることです。

2013年6月16日日曜日

神の子として

2013年6月9日の宣教より

マタイ5:9


“平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。”というみ言葉に注目したいと思います。◆わたしたちはイエスキリストを罪の贖い主として信じ、告白したときに神の子として受け入れていただきました。憶えてますか?だから神の子とされた私たちは平和を実現する者になるべきです。今日、ここに特別に別府国際バプテスト教会に与えられた使命があると思います。◆現在、世界中のいたるところで紛争、テロが起こっています。貧困に苦しむ人がいます。もし、私たちが柔和で憐れみ深い心をもってお互いに他国の人々と接することが出来たら平和への実現の第一歩となれるのではないでしょうか。壁壊し、橋架け、そして平和の実現、今こそまさにそれが世界中で求められていると思います。身近なところで、私たちはこのように素晴らしい関係を持っています。この教会から福音の使者を世界中に送り出すことができるという環境が与えられています。◆バベルの塔で神さまは人間の奢り高ぶりを裁いて言葉を変え国々に散らされました。でも福音という共通の“言語”で平和を実現するために今私たちを用いようとしています。皆さん、その召しに従いますか。(執事 遠藤哲明)

2013年6月9日日曜日

神の前に豊かに生きる

2013/6/2宣教より

ルカ 12:13~21

これは、主イエスがいつものように群衆に教えておられた時のことです。その中に財産相続をめぐって困っている一人の人がいたのです。◆こういう争いはいつの時代でもあります。時折、それが殺人事件までも引き起こしてしまうことがあります。財産とは、富とはなんと人間の心をゆがめてしまう恐ろしいものかと思います。◆もちろん、富、財産が「悪」ということではありません。それをどのように用いるか、それが大切なのです。富、財産に魂を売り渡してはならない、支配されてはならないのです。◆これ、正論です。ここにおられる皆さんも「その通りだ」と賛成なさるでしょう。しかし、理屈では分かっていても、ふと気が付けば、私たちの心に入り込んで、知らず知らずに支配してしまう力、「貪欲」という悪しき欲望の力が富や財産にはあるのです。◆これは何もこの遺産相続で悩んでいる一人の人の問題ではなく、すべての人間が陥りやすい罠であり、弱さなのです。◆「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」――ここで主イエスが語られる中心問題は、「死」の問題です。富の問題ではありません。この世で金持ちであっても、そうでなくても、誰しも必ず迎える「死」の問題です。◆そしてその時に、意味ないものとして手放さねばならないものがある、ということです。裏返せば、死をもってしても私たちから引き離されないものがある、ということではないでしょうか。◆このたとえ話は、「一所懸命財産を蓄えても、所詮人間は死んでしまう存在だ」という人生のあわれを語っているのではありません。「神の前に豊かに、どう生きるか」という招きなのです。

2013年6月2日日曜日

見つけられた一匹の羊

2013年5月26日の宣教より

ルカ15:1〜7

さきほど主の晩餐をいたしました。その晩餐にあずかりながら、「えっ、あの人が一緒なの。いやだわー。牧師はなぜ、あの人を私たちと一緒に扱われるのかしら」と考えた人はいないでしょう。けれど、この場面では、まさにそういう不平、非難の言葉が出て来たのです。◆食事を共にするということは、これは他者と共に生きる時の基本です。一緒に食事をするということは、互いが仲間として受け容れあうということです。つまり、主イエスは、徴税人や罪人の仲間入りをされたのです。◆しかしそれを見て、それが許せない人がいたのです。罪人の仲間入りをすることがどうしても許せない人々がいたのです。それは「自分はあいつらとは違う」と考え、自分の正しさを誇っていたからです。主イエスは、そんな彼らの傲慢を打ち壊すために、このたとえ話をなさった、ということです。◆おそらく、この話をなさった時、そこには非難の原因となった徴税人や罪人たちも一緒にいたでしょう。彼らにとって、この主イエスのたとえは、喜び(福音)以外の何ものでもなかったでしょう。それまで聞いたことのない、愛と憐みに富んだ言葉だったでしょう。◆このように、たとえ話というのは、どの立場で聞くかによって、それが裁きにもなれば、救いにもなるのです。さあ、私たちは一体、どちらの立場に身を置いて、このたとえを聴いているでしょうか。律法学者でしょうか、それとも罪人でしょうか。◆私たち一人一人が、それぞれの立ち位置を確認しましょう。一人一人が「見つけられた一匹の羊」として自分を見つめ、そして周りの一人一人に対してもそのように考えることができるなら、そこに主イエスの開始された「神の国」が現されるでしょう。