2017年10月10日火曜日

今週のスケジュール

◆10月18日(水)聖書の学びと祈り会
午前の部(10時半~12時)、午後の部(午後7時30分~9時)
ヨハネによる福音書8章1~11節から学びます。


◆10月20日(金)午後7時~
フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF)
*今週のFFFは新入生歓迎パーティーです!
 フライデー・ファミリー・フェローシップは、当教会を会場にして毎週金曜日の夜に開かれている超教派クリスチャンを中心にした国際交流の集まりです。歌やゲーム、信仰に関するディスカッションなどがあります。教会、国際交流に興味のある方、どなたでもご参加ください。


◆主日礼拝 10月22日(日)
メッセージ「福音を告げ知らされる」
マタイによる福音書 11章2~6節
宣教者 酒井 朋宏牧師
*次週は合同礼拝です。
 礼拝 午前10時50分~12時15分




◆各会ミーティング 10月22日(日)
午前10時~10時40分
小羊会、少年少女会、青年会、女性会、男性会があります。
(入門クラスと国際青年科は通常通りの教会学校です)

2017年10月2日月曜日

==牧師就任按手式==


次週10月8日(日)午後4時より、酒井朋宏牧師「就任按手式」が開かれます。
酒井牧師は既に今年4月より、当教会の牧師に就任しております。この度の就任式は
近隣教会の皆様にもお集りいただいて、共に主の祝福を祈り、分かち合う機会となります。


*無事終了いたしました。大勢の来会者者に恵まれ祝された時となりましたことを感謝いたします。

2017年9月25日月曜日


2017年9月24日
別府国際バプテスト教会
コリントの信徒への手紙一1章10~17節
「キリストによる一致」

 昨日から、教会のファミリーキャンプが開かれています。礼拝の後も、今日の午後3時過ぎまでキャンプのプログラムが続きます。昨晩は何人かのメンバーが教会に泊まりました。このキャンプを通して、私たちの信仰の絆と交わりが、より深められますようにと私は願っています。
 
さて、今年度の私たちの教会のテーマは、「神にあって共に成長する」 "We grow together in God” です。そしてそのテーマの元になる聖書の箇所はコリントの信徒へ手紙一3章7節です。
「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。

 少し前まで、我が家でミニトマトを育てていました。(最初は子どもたちが育てるというので買ってきたのですが、段々私が毎日水をやるようになりました)暑い夏の日に、少しでも水をやるのを忘れると、すぐに葉がしぼんで萎えてしまいました。
そして水をやると、見違えるようにまた力を取り戻して、茎と葉がしっかりと伸びる様子を見ることができました。植物、作物を育てるのに、水をやることは欠かせないと実感いたしました。
 また以前、ある予備校の先生がテレビでこう言っているのを聞いたことがあります。その人は大変有名な先生で、その人の授業を受けると、多くの学生が成績を上げて希望の学校へ進むことができる、と評判の英語教師でした。

「わたしがやっていることは、ただのサポート役です。私の授業を受けて、その学生の成績が上がったのならば、それは80%その学生自身の力であり努力です。私は勉強のコツややり方を教えるだけで、補佐(サポート)役をしたに過ぎないんです。」
 確かに、どんなに優れたコーチや、人をやる気にさせることができる先生でも、最終的に勉強や練習をして、成績を上げたり技術を身に付けたりする努力は本人にしかできないものです。
 つまり、“成長するかどうかはあくまで本人次第”、これが世の中一般の考え方です。これは非常に個人主義的な考え方とも言えると思います。その人がどのような生き方をするか、成長するかどうかは、その人個人の選択である、ということです。
 しかし、聖書はこういうのです。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。
植える者も必要です。水を注ぐ者も必要です。自分自身で成長しようとする本人の努力も必要です。しかし“成長させてくださるのはあくまで神”、キリスト者はいつもこの点をしっかりと覚えておかなくてはならないのです。
このことが分かっていれば、私たちはたとえ何かがうまくいかないとしても、それで自分自身を卑下(ひげ)したり、また逆に何かに成功したからと言って、自信を持ち過ぎて傲慢になってしまうことから、私たちは自由になることができるのです。
そして私たちは1コリント3章のその聖句から「共に成長する」ことが大切だと考えました。クリスチャンの成長は個人的なものではないのです。教会の中で、私だけが成長するとか、一部の人だけが成長するのではなくて、「共に成長する」ことが大切なのです。なぜ“共に”でなくてはならないのか、そのことを今日は考えたいと思います。
そして、もうひとつ、今年度の私たちのテーマである「神にあって共に成長する」は、私たちの教会の2013年から2022年の10年間の主題である「すべての民を主イエスの弟子に」に基づいています。(これが、今回のキャンプの主題でもあります)

「すべての民を主イエスの弟子に」これは、マタイによる福音書28章19~20節のイエス様のいわゆる宣教大命令(Great Commission)の言葉です。
私は今日の聖書箇所を黙想して宣教を準備するあいだに、今年のテーマの「神にあって共に成長する」と、10年間の長期テーマであり今回のキャンプの主題でもある「すべての民を主イエスの弟子に」との間には、密接につながる神の教えがあると改めて示されました。そのことも今日一緒に皆さんと分かち合いたいと思います。
 
 さて、コリント人への第一の手紙の今日の箇所をみますと、明らかに当時のコリント教会の中で問題が起きていたことが分かります。

1章10~11節
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」

 コリント教会では、いわゆる“仲間割れ”が起きていたようです。「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と、教会の人々がグループを作って、それぞれ自分のグループが、または自分のグループの先生のほうが優れている、などと言って争っていたようです。
パウロの言う「皆勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」all of you agree with one another in what you say(10節)とは、どういうことでしょうか。
これは、あらゆることに皆がいつも同じ意見を持ちなさい、ということでしょうか?何かを決めるときも、皆が同じ意見を持って、違う意見や考えが出ないようにしなさい、ということでしょうか?
私たちは、プロテスタント教会の中でもバプテストと言われる教会です。バプテスト教会の特徴は色々ありますが、その一つに民主的教会運営が挙げられます。民主的な教会運営で大切なのは、信徒一人ひとりの意見が平等に聞かれることです。たとえ少数の意見であってもきちんと聞かれることが大切です。
そして大切なことは皆で祈り、話し合って決めることがとても重要だと私たちは考えます。(祈ることが大切です。まず祈ることがなければ、いくら民主的に話し合っても、私たちは教会ではなくなってしまいます)祈りと話し合いのプロセスを通して神の御心を探るのです。

 ですから、何かについて話し合うとき、何かを決めるときに、色々と異なる意見が出ることは悪いことではなく、むしろそれは良いことなのです。そのために合意に達するのに時間がかかっても、私たちは合意形成のプロセスを大切にします。
パウロは同じコリント1の11章19節でこうも言っています。
「あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません」
 “適格者”(英語では which of you have God’s approval)と訳されているギリシア語の“ドキメー”(dokimeh)という言葉には「吟味された者」という意味があります。

ですから、神の御心が何であるのかが吟味されて明らかになるには、時には意見の違いも、仲間争いさえも必要だろう、とパウロは言うのです。ただし、そこには礼儀をわきまえた、お互いに相手を敬う気持ちを持つことが大切であることは言うまでもありません。
しかし、色々な意見がでること自体は良いのですが、コリント教会の信者たちは決定的な間違いを犯していました。
「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と言いながら、自分たちが一体誰によって結びつけられているのか、教会の頭が誰であるのかを見失っていたのです。(「キリストに」と言っていた人も、このパウロの書き方からすると、イエス・キリストを正しく見ていなかった人たちでしょう)
私たち教会を一つに結びつけているもの、それは人間の誰か優れたリーダーや先生ではないのです。パウロでもなく、アポロでもなく、ケファ(ペトロ)でもないのです。
私たちを一つに結びつけるもの、それはキリスト以外にあってはならないと、聖書は言うのです。そして、そのキリストとは十字架につけられたお方です。

十字架につけられたキリストが私たちを限りなく愛し、私たちの罪を赦してくださった。その恵みによって私たちは救われ、その恵みによって私たちはこうして結ばれているのです。
だから私たち教会は「心を一つにして固く結び合う」(10節)のです。キリストによってです。

1コリント12章12~13節をお読みします。
身体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。
教会に繋がるキリスト者であれば、個人的に自分の信仰だけが成長するということはありません。なぜなら、私たちはキリストによって結びつけられた一つの体であるからです。

最初に“個人主義”という言葉を使いましたが、現代では非常に個人主義的な考えが発達して、お互いに干渉し合わない、他人のことは放っておくから、私のことも放っておいてくれ、という考えが強いかもしれません。
しかしキリスト者同士はそうであってはならないのです。“お互いに適度に距離を置いて、まあ適当に”という関係であってはならないのです。
なぜなら私たちはキリストを頭とする一つの体の部分部分だからです。同じ体のどこか一部だけが、別の部分とは離れて関係なく成長する、ということはあり得ないのです。
確かに、他人の自由や独立性が侵害されるような干渉は許されませんが、キリスト者の集まりは「心を一つにして固く結び合う」ものであり、お互いが共に成長することなく、誰か一人だけが成長することはない、ということを覚えたいと思います。

さて、マタイ28章19~20節を読んでみましょう。「宣教大命令」です。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 「すべての民」とは、当時のユダヤ民族を越えたあらゆる民族のことです。今、私たちの教会、BIBCには色々な国の人たちが礼拝に出席してくださっています。素晴らしいことです。

海外の方に限らず、日本の方も、特にこの地域に住む色々な人が来ることのできる教会に私たちの教会がなることができればよいな、と私は願っています。“すべての民をわたしの弟子にしなさい”とは、“福音は全ての人に伝えられねばならない”ということだからです。
そして私たちキリスト者は日々生活をしています。私はそのことを意識して、毎週礼拝の最後の祝祷で、「今週それぞれの生活の場へと遣わされていく私たちひとりひとり」という言葉で祈っています。
 
たとえ、聖書を持って遠く海外まで宣教旅行には行かないとしても、私たちが教会に繋がって礼拝を大切にし、教会の中での兄弟姉妹の交わりを喜んでいるのならば、その喜びは私たちの教会の外での普段の生き方にも自然と現れるはずではないでしょうか。

 その私たちの生き方自体が伝道となるのです。私たちが教会の中で共に御言葉に聞き、お互いをイエス・キリストによって結びつけられた同じ体の一部として大切にし合うことで、互いの信仰が強められます。その教会から日々の生活に遣わされること、イエス様に従うことを生活の中で実践すること、それが伝道となるのです。
 最後に、今日の聖書箇所の言葉をもう一箇所読んで宣教を終わりにしたいと思います。
1コリント1章17節
「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」
 「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではない」とパウロは言います。これは、バプテスマは信仰者にとって最終的な目標ではないということです。

 バプテスト教会では、バプテスマという儀式そのものによって人が救われるのではなく、聖霊の導きによってイエス・キリストを救い主と信じた信仰者が、これからイエス・キリストに従い、教会の一員として神に仕えていく決心を表明する、そのような信仰の応答的行為であると理解します。
 ですから、バプテスマを受けた私たちひとり一人も継続的に、主の弟子として成長し続けることが求められるのです。
 またパウロは“福音を告げ知らせるのに言葉の知恵によらない。キリストの十字架がむなしいものになってしまわないために。”とも言います。
わたしは牧師として、正しく神の言葉を語ることができるようにと祈り、できるだけの祈りと準備をして宣教に臨みます。そして牧師でなくても、キリスト者は福音を人に伝えるために、それぞれの言葉で伝道をすると思います。

しかし、どこまでいっても宣教の力強さは、人間の言葉の巧(たく)みさとか、話し方の技術とか、伝える人の人格などにはよらないのです。
 人にイエス・キリストを信じさせ、聖書の御言葉に私たちを従わせる力は、あくまで御言葉自身が持つ力であり、聖霊の力なのです。
 ですから私たちはあきらめずに、希望をもって福音を証し続けましょう。聖書の言葉がどれほど私たちを力づけるものであるか、イエス・キリストの限りない愛がどれほど私たちを慰め、私たち教会の一人ひとりを互いに結び付けているのかを、世の中に向かって証し続けていきましょう。
 キリストによって結びつけられた私たち教会の伝道の業が神に大きく用いられて、福音はきっと前進すると、私たちは信じてよいのです。
このファミリーキャンプを通して、お互いの絆を強め合い、私たちが共にいることの意味と喜びを、再発見できることを願っています。(酒井朋宏)


2017年8月27日日曜日

2017年8月27日(日)
                                                              マタイによる福音書7章13~14節
                                                                            「命に通じる道」


 今日の箇所でイエス様は「狭い門から入りなさい」と言います。そして続けて「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言います。
 このイエス様の言葉を聞いて私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。
 
 “わたしは命に通じる門を通って、永遠の命へ至る道を、今歩いている”と、自信を持って言う事が私たちはできるでしょうか。確かにイエス・キリストを信じた私たちは、命への道を歩んでいます。主イエスによる救いを信じて、救いの恵みに与(あずか)っています。
 しかし、それでもなお「狭い門から入りなさい」というイエス様の言葉は、信じた者にとっても大切な言葉であり、クリスチャンであっても聞き続けるべき大切な言葉です。
 今日の13節と14節の言葉の中で、この“(あなたがたは)狭い門から入りなさい”という言葉だけが命令形によって書かれています。ですから、今日の箇所で一番重要な言葉はこの“(あなたがたは)狭い門から入りなさい”というイエス様から私たちへの命令です。
ルカによる福音書13章では、ある人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」(ルカ13:23)とイエス様に質問します。それに対してイエス様は、“狭い戸口から入るように努めなさい”(24節)と答えます。そして“入ろうとしても入れない人が多い”(24節)ともおっしゃいます。25節では、家の主人がその戸を閉めてしまう時がくる、ともおっしゃいます。
しかし、「救われる人は少ないのですか?」という質問に対して、イエス様は、救われる人が多いとか少ないとかを、あなたが考えようとするよりも、“狭い門から入りなさい”、“神を信じて主に従って生きることに、まずあなたが集中しなさい”と言っているのです。
私たちは自分自身が、イエス様が言う“狭い、命へ通じる門を”通って、その道を日々歩んでいるかどうかを吟味する必要があると思います。
狭い門に対して、広い門とは誘惑の門です。できればそっちへ流されて行ったほうが楽に見える道です。考えてみますと、クリスチャンとして日々を歩むことは、簡単なことではありません。
日曜日には礼拝に来るよりも、他にしたいことがある時もあるでしょう。他に楽しいことがあればそちらを優先したくなる時もあります。
聖書を読む時間はなかなか取れない。しかし以外と他に自分が好きなことのためには時間を取っていることが私たちはあります。
また、聖書を読もうとしても、聖書には分かりにくい箇所、難しい箇所も多いので、読む事自体が気力を要する作業ともなり得ます。
神様への感謝を表すために私たちは献金を捧げます。献金も現実の生活を考えると、けっして簡単にできることではありません。収入の中から捧げることには、痛みを伴います。 
しかし、私たちは意識をして一週間の初めの日を神様のために取り分けて、この日を神に捧げて私たちの心を神に向ける、礼拝の日とします。
私たちは日々聖書を読んで、聖書を通してしか知ることのできない神のメッセージを聞きとろうとします。
そして献金、捧げることに伴う痛みを通して、私たちは日ごろの生活が支えられていることに感謝を表し、「本当に必要なものは必ず主から与えられる」という主への信頼をより強くしていきます。
 また教会での奉仕や、教会員同士の交わり、助けあいも重要なことです。
 狭い門から入りなさい、それは何か習慣のようなものとしてではなく、常に自分で意識をして神の恵みに感謝をし、自分の選び取りとしての信仰生活を続けなさい、ということです。
 今日の前の箇所マタイ7章7節にはこう書いてあります。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 “求める”、“探す”、“門をたたく”、いずれも意識をして自分から能動的に行動することが強調されています。神の恵みへの応答として、意味と意義をしっかりと考えながら信仰生活を送りなさい、ということが言われてます。
さて、“狭い門”と言って思い浮かぶのは、いわゆる難関の学校とか入ることが難しい有名人気企業などです。そこで言う“狭き門”とは、入りたい人は多いけれども、選ばれた限られた数の人しか入れないという意味です。
 イエス様の言われた“狭い門”とは、入れる人の数が初めから制限されている門なのでしょうか。天の国には、才能に恵まれた人、または努力をして頑張って、試験で高い点数をとって合格した一部の人しか入れないのでしょうか。 
先ほど申し上げましたように、神が用意してくださった命の道を、私たちは意識的に選び取ることが求められています。命と死(滅び)のどちらかのうち、命の方を自分で選ぶようにと求められています。
多くの誘惑に打ち勝って、狭い門を選択するのは簡単ではありません。しかし、その門は誰に対しても開かれた、誰でも入ることのできる門です。
私たちが自らの努力や、自分自身を頼りとして生きる生き方を放棄して、ただイエス・キリストに従うことを決意さえすれば、誰でも入ることのできる門であり、誰でも通ることのできる道です。
 その狭い門を通るために必要な条件は、ただイエス・キリストを救い主と信じ、告白することだけです。“だけ”とは不適当な言い方かもしれません。イエス様を救い主と告白できることは大変な恵みだからです。
また“狭い”ということの意味ですが、聖書は、イエス・キリストが唯一の神、救い主と伝えます。今から約2000年前、ユダヤの国のナザレという田舎町でお生まれになった大工の子どもが、神の子であり神ご自身である、と言うのです。
私は求道中の頃、もしイエス・キリストが日本で生まれていれば、イエス・キリストが日本人であったら、もっと受け入れやすし、もっと信じやすいのに、と思っていたことがあります。
2000年前の遠い国で生まれた一人の人が真の神と言われても、外国の宗教を信じろと言われても、、、と思っていたのです。
しかし、私たちにとっては遠い国、遠い時代に生まれて、人々と一緒に生きて死んでいった一人の人、今私たちの目には見えないお方が神である、という聖書の証言を信じることができるか、それがまさに私たちの信仰の鍵なのです。
イエス様は“私は道であり、真理であり、命である”と言われました。“私は一つの道(ほかにも多くある道の一つ)”とは言いませんでした。命への道はイエス・キリストしかない、と言うのです。
 その聖書の御言葉を聖霊によって信じさせられ、主を信じて生きるという決断が自分でできるかどうか、が鍵なのです。
“救いはイエス・キリストのみ”。それは非常に“狭い”考え方と言えます。神様はもっと広い、多くの選択肢を私たちに与えてくれてもいいのではないか、と皆さんは思われませんか?
もし神様が、ナザレのイエスという一人の人物ではなく、場所や時代を超えて、もっと多くの人々が目で確認できるような姿で現れてくれていれば、とも私たちは思うかもしれません。
しかし、聖書が伝える神は、ご自身をそのようには表しませんでした。そして仮に神が私たちの目に見えたとしても、それでも私たちは依然神を信じることはできないのではないかと私は思います。
マタイ28章の終わりに(28:16~17)、11人の弟子(ユダがもういません)たちが山に登って、そこで復活したイエス様に会い、ひれ伏したという箇所があります。そこには“しかし疑う者もいた”と書かれています。
復活の主を目にしても、まだ疑う人がいたというのです。
私たちはたとえこの目で神を見たとしても、依然として疑うかもしれないのです。私たちの心は疑り深いものなのでしょう。ですから、私たちは自分の目や感覚だけを信じて、神を信じることはできないのです。
現代では、人間の多様な考え方や生き方をお互いに認め合うことが大切だと言われます。特に私たちの教会には、多くの国や地域の人が集まっていますから、お互いの文化や習慣、考え方、また言語などを学び、それらを尊重することはとても大切です。
しかし、その私たちも、聖書に証されたイエス・キリストという唯一真の神によって結びつけられていることを忘れてはなりません。
神様は私たちと同じ一人の人となってご自身を現わされました。そして神の福音を人に伝える使命を、人である私たちにお任せになりました。
それが、たとえどれほど“狭い”考え方のように見えたとしても、私たちはイエス・キリストを主と告白する群れであることを常に覚えて、そして信仰を生活の中で実践していきたいと思います。 
7章14節には
「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と書かれています。
イエス・キリスト以外に、命に通じる門、本当の生きる目的を見いだそうとしても、それに成功する人はいないのです。なぜなら、イエス・キリスト以外に真の道、真の命はないからです。
 私たちは自分で真の命への道を見いだすことができませんでした。イエス・キリスト以外の何かを探していたからです。そして聖書は、主のほうから私たちを探し出してくださったと伝えます。
 何かを求めて、本当の生きる目的を求めてさまよう私たちを主が見つけてくださったのです。
ルカによる福音書15章の「見失った羊のたとえ」はそのような物語です。100匹の羊のうち見失った一匹を捜し回って、見つかると大喜びする羊飼いの姿、それが私たちの父なる神のお姿です。
99匹を野原に残しておいても、いなくなった一匹を見つかるまで探す、主はそのようなお方です。失われた私たちを探し出して、見つけてくださったのは天の父なのです。
 
 今日の箇所で言われる門と道は、私たちの生き方の根本に関わる事です。命か死かの問題であるからです。
 神は、私たちに決断を迫ります。どちらかを選ぶように、と。そしてその選択には中間がないのです。第三の道がありません。この妥協の無さも、聖書の教えが非常に強引で狭いものに聞こえる理由かもしれません。
 しかし、“イエスは主”という告白に導かれて、命に通じる道を選択することができた私たちは、この道に入れられた恵みに感謝をしたいと思います。そしてこの恵みを私たちに下さることは、神様ご自身にとっても決して簡単なことではなかったことを、私たちは覚えたいと思います。
十字架と復活の主イエスに従うかどうかは、命か滅びかという問題です。あなたがたはは命に通じる門を通りなさい、とイエス様は言うのです。そしてイエス・キリストと共に歩む命への道がある、という福音を他の人にも伝道しなさい、とイエス様は私たち教会に対して言っているのです。
 礼拝においても、私たちはイエス・キリストの声を聞いて、その御言葉に聞いていこうという決心を新たにされているでしょうか。今日、御言葉を頂いて、真の命を選び取り御言葉に従って生きようという決心を新たにしましょう。
イエス・キリストは、命へ通じる道として、私たちのためにこの世に来てくださいました。イエス・キリストを主と信じ、イエス様に従って生きることが、私たちが本当に生きる命の道です。
イエス様はそこを通る人は少ないと言われたけれども、しかし信じれば誰でも通ることのできる、誰にでも開かれたその門を、多くの人が見つけ出すことできますように、イエス・キリストを主と信じる信仰へ一人でも多くの人が導かれるように、私たちは祈りたいと思います。



2017年7月24日月曜日


                                        スケジュール


■8月30日(水)聖書の学びと祈り会
10:30~12:00と19:30~21:00の2回
ヨハネによる福音書から学び、共に祈りの時を持っています。
次回(ヨハネによる福音書6章41節~59節)




■次週主日礼拝 9月3日(日)
第一礼拝 9:00~9:50
教会学校 10:00~10:45 (小中科、高青年科、成人科、国際成人科)
第二礼拝 10:50~12:15
礼拝宣教 「ただひと言おっしゃってください」
マタイによる福音書8章5~13節
          宣教者 酒井朋宏




■フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF) 
*大学の夏期休暇中はFFFはお休みです。10月6日(金)より再開します!
FFFは、毎週金曜日19:00~から、当教会を会場にして開かれている
超教派クリスチャン、国際交流の集まりです。歌、ゲーム、信仰に関する
ディスカッションなど。教会に興味のある方、英語を通した国際交流に
興味のある方、皆さん気楽にご参加ください!




7月23日(日)
                                                        マタイによる福音書6章12~15節
                                                                    赦し~主の祈り(2)


 先週から私たちは、マタイによる福音書の中の、イエス様が教えてくださった“主の祈り”の部分を読みながら御言葉に聴いています。
イエス様は、祈りの言葉の一つひとつを具体的に教えてくださっています。
私たちが祈る相手は“天におられるわたしたちの父”です。天の父なる神とは“わたしだけの父”ではなく、同じ神を信じる信仰の兄弟姉妹、私達すべての者の父であり神なのです。
イエス様は信仰の共同体である教会の私たちが、心を合わせて共に祈ることのできる祈りとして、この主の祈りを教えてくださいました。
 今日はマタイの主の祈りの後半の部分に、共に聴いてまいりましょう。
12節は「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」です。
 “負い目”とは借金です。借金であれば普通は返さなくてはなりませんが、イエス様は“わたしたちの負い目(借金)を赦してください”と祈りなさいと言います。“自分で返します”ではないのです。
 ルカによる福音書の同じ箇所では、ここは“負い目”ではなく、“罪”と書かれています。
 「わたしたちの罪を赦してください」(ルカ11章4節)
 負い目とは、ルカがはっきり書いているように、わたしたちの“罪”のことなのです。
 私たちが唱える主の祈りでも「われらに罪を犯すものを我らが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ります。
マタイは“罪”と言う言葉を直接使わずに、“負い目”という言葉を使うことによって、罪とはどのようなものであるか、ということを私たちによく考えさせようとしているのだと思います。
 この“罪”とは、理解するのが難しい概念です。聖書は“人は皆罪人である”と教えます。
“ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです”(ローマ3:9)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(ローマ3:23)

聖書のこのような言葉を見ると、大抵の人たちは反発すると思います。そして私たちクリスチャンも“罪”というものが、本当は実はよくわからない、ということがないでしょうか。
わたしたちはこのように思うのではないでしょうか?
“わたしはそれほど善人ではないかもしれないが、それほどの悪人でもない。まして罪人などではない”。
 
 マタイは“罪”を“負い目”=“借金”と言いかえましたが、イエス様のたとえ話で、巨額の借金をした人の話がマタイ18章にあります。マタイ18章21節からの「仲間を赦さない家来のたとえ」です。
 そこではまずイエス様の弟子のペトロがイエス様のところへ行き、こう尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか?」
ペトロはイエス様と一緒にいてその教えを学びながら、人を赦すことの大切さはよく分かっていたのでしょう。7回も同じ人を赦そうというのは、たいしたものです。
でも「7回赦せばいいですか?」の言葉の裏には“神の教えというものは、一体どこまで達成すれば合格点がもらえるものなのか?”という思いがあります。目に見える基準とか上限をはっきりさせようとする気持ちです。
 何回赦せばいいのか、と目に見える基準(ノルマ)を設定して、それをクリアすれば、合格点、救いが得られる、という考えです。
 しかしイエス様のおっしゃる赦しの基準は違います。ペトロの質問に、イエス様は「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と答えます。
七の七十倍(490)とはほとんど“無限”を意味する表現です。無限に赦せ、こんなことが人間に可能でしょうか?
 ここでイエス様が一つのたとえ話をします。ある王の家来が王に一万タラントンの借金をしていた、という話です。その家来は王の憐みを受けて借金を帳消しにしてもらいました。
ところが、この家来は、百デナリオン(100万円)を自分から借りている友人の借金を赦さずに借金を返すまでその友人を牢に入れました。それを見た別の仲間たちがその一部始終を王に告げると王は怒り、その家来を牢獄に入れた、という話です。
 18章35節
 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。
 ところで1タラントンはいくらだと思いますか?
1タラントンは何と今のお金では大体6000万円です。とすると一万タラントンは6000万円の1万倍ですから6000億円。はっきり言って私たち庶民には全く現実感覚のわかない金額です。
この家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言いますが、絶対に返せない金額のはずです。返せないどころか、そもそもどうやって一人でそんな金額の借金をしたのか謎であり想像もできません。
イエス様は、1万タラントンの借金に例えて人の罪の話をしているのです。そのポイントは、一万タラントンのように、私達が自分の罪について“想像できない”“現実感覚がわかない”というところにあります。
つまり私たちは、私たちの罪というものが何だか分からないのです。私でも分かっていないのです。
罪人と言われて私たちが反発するのは、私たちが、いわゆる罪、つまり“犯罪”とか“悪い事”(盗むとか、噓をつくとか)、私達が日常で犯す可能性のある、自分でも自覚することができるレベルの“悪い事”を思い浮かべるからです。
しかし聖書の伝える罪とは、そういう罪とは次元の違う、もっと人間の根本的な性質に関わるものです。
私達が自分自身の知識や思考では決して理解することはできず、まして自力では決して返すことのできない負い目、それが罪です。
そしてイエス様はこの罪を“わたしたちの負い目”、つまり“わたしたちの罪”と言います。つまり罪とは人間全体の罪である、と言われているのです。これも私達が理解するのが難しい点です。
ローマの信徒への手紙5章12節にパウロはこう書いています。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
ここでパウロが言う“一人の人”とは創世記に出てくる、最初の人間アダムのことです。
創世記2章16~17節
「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
神ははっきりとアダムに警告していました。“食べると必ず死ぬ”。神は曖昧な言い方はされませんでした。“食べると良くない”、とか“死ぬかもしれない”ではなく、“食べると必ず死ぬ”と明確に伝えていました。
 アダムはこの主の言葉を守ることができず、その結果主なる神と人間の間に、埋めることのできない溝ができました。神と人との関係が人間の側から壊された、と創世記の物語は伝えています。
創世記のこの物語は、クリスチャンであっても、本当に自分に関係のあることとして理解するのは難しい箇所ではないでしょうか。アダムが犯した罪の結果を、なぜ私達が負わねばならないのか。それは連帯責任とういことでしょうか?
 しかし聖書はこれが人の罪の始まりであり、罪の本質であると伝えるのです。アダムが犯した罪、それは“善と悪を判断すること”、それは本来神にしかできないことなのに、神にしかない力を自分が神に成り代わって自分自身の内に持とうとする、そのような私達人間の思い、それが罪です。
自分が自分の中心。そうなると、私たちは自分自身の基準で他人を裁くようにもなってしまいます。
 もし100デナリオン(大体100万円です)の借金を自分に返さない人がいたら、私も怒ると思います。ところが、そうやって怒る私は、自分が一万タラントンの借金を赦されている、つまり自分の罪がイエス・キリストの十字架によって赦されている恵みを普段忘れているのです。
イエス・キリストの十字架の死によって私達は赦されました。十字架のイエス様がどれほど私達に平安を与えてくれるかを思うと、一万タラントンに例えられる私達の負い目=罪というものが見えてきます。
私たちは自分の罪というものが自分ではわかりません。私たちは、イエス・キリストの十字架を通してのみ、自分の罪を自覚することができます。
キリスト教の伝える罪とは何であるのか?それは、神の子イエス・キリストがわたしたちのために十字架に掛かって死んでくださった、その事実に私たちが向き合うことによって、初めて明らかになるものであり、イエス様の十字架を通して初めて私たちに示されるものです。
私たちはいつも主イエスの十字架の恵みに目をとめて、感謝する者でありたいと思います。
12節の後半は「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」そして14節でも、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」とあります。
15節は「しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
これはとても厳しい言葉です。
  “わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように”の中の“赦す”というギリシア語の動詞“アフィエーミ”には“解放する” という意味もあります。
 自分に負い目のある人を“解放する”。これは、自分に罪を犯した人への怒りの感情に囚われて、そのような負の感情に自分が支配され続けることを止めて、そういう感情を手放しなさい(解放しなさい)、そうすることで私たち自身の心が解放される、という意味もあるのではないでしょうか。
 そういう解放の力、赦しの力を、私たちは主なる神に祈ることで神から頂くことができるのです。
主なるイエス・キリストは十字架の上で死なれるときに、自分を十字架にかけた人たちのことを「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。(ルカ23章34節)
これは私たち人には絶対にできない祈りです。自分にはできない祈りであっても、そのイエス様の祈りの言葉に私達自身を任せればよいのではないでしょうか。
 もう一度14~15節をお読みします。
 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」
 ここを何度も読んで、“どうしても人を赦せないこともある”と私たちは思ってしまわないでしょうか。
しかし、よく考えてみますと、この箇所は、イエス様が私達に何かの戒めを与えようとしているのではなく、ここはあくまで祈りを教えてくださっている箇所なのです。
 このイエス様の言葉は、こうしなくてはいけない、頑張って自力で解決しなさい、ではなく、これは祈りの言葉なのです。ですから“こんなことはできない”と諦める前に、私たちはまずイエス様に信頼をして、イエス様の教えてくださった通りに神に祈ればよいのです。
“こうしなくてはいけない”という決まりや戒めとしてではなく、神に寄り頼んでお願いすればよい、祈ればいいんだよ、という希望と慰めの言葉がここにあるのです。
 
 最後に13節の“誘惑”について考えましょう。
 「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
  誘惑とは“試練”という意味にもなります。
試練であれば、私たちは人生の試練に向き合わなくてはいけないのではないでしょうか。試練を恐れずに果敢に向き合って、試練に打ち勝つことを学ばなくてはいけないのでは?私たちは強くならなくてはならないのではないでしょうか?
 しかしここで言う誘惑とは、罪に至るほどの誘惑の力です。私達が自分の力で乗り越えることのできない悪の力です。神に敵対する悪の力から私たちを救い出してください、と神に信頼して祈ることが言われているのです。
 イエス様は、私たちを罪にまで至らせる誘惑の力がどれほど強いものかを知っていました。イエス様ご自身が荒れ野で悪魔の誘惑を耐え忍ばれました。(マタイ4章)
この主の祈りはイエス様ご自身も必死に祈られた祈りです。だから、このように祈れば必ず天の父は聞いてくださるし、これこそが私たちに力を与える祈りだと、イエス様ご自身が自分の経験と確信をもって教えてくださった祈りです。
 誘惑、試練に対抗するには、私達には神の助け、神の言葉が必要です。“悪い者からの誘惑”とは簡単に対抗できるものではありません。もし私達人間が、自分の力で打ち勝つこのできる程度の誘惑であれば、そもそもそれは聖書の言う誘惑ではありません。
 信仰を持っていても誘惑がくることは避けられません。しかし私たちは主に寄り頼んで、“誘惑に遭わせないでください”と正直に祈ってよいとイエス様は言うのです。
私たちは、主の祈りの特に今日の箇所を祈ることで、私たち自身の中には人を赦す力がなく、赦す力は神から頂くことを知ります。そして私達の持つ罪について自覚します。罪赦された恵みを神に感謝したいと思います。
  イエス様が教えてくださったこの主の祈りによって、私たちはいつもまっすぐ正直に神に向かって祈ることができます。イエス様が教えてくださった主の祈りの言葉の力に信頼をし、今週も主に向かって祈る者でありたいと願います。 (酒井朋宏)

2017年6月27日火曜日


625日(日)宣教
マタイ福音書51316
「地の塩、世の光」

皆さんは料理することがお好きでしょうか?
 
私は料理をすることが嫌いではないのですが、あまり上手には出来ません。料理の本を見ながら、その通りに何かを作ることはできると思います。しかし、自分で作れる料理の数はとても限られています。ハンバーグ、カレーライス、肉じゃが??
 “自分で料理が色々できるようになるといいな”、“料理ができると格好いいな”とは思います。今までに何度か“料理が上手になりたい”と思って、努力はしたのですが、なかなか一人で色々な料理が作れるようなレベルにはなりません。
料理の話をしたのは、今日の箇所の“地の塩”という言葉から、塩といえば料理に欠かせないもの、ということを思ったからです。
 塩は料理にとても重要なものです。
実は私は自分で料理していて、塩と砂糖を見事に間違えてしまったことが二回あります。
玉子丼とあともう一つ何か他の料理を作ったときに砂糖の代わりに塩を入れてしまい、ものすごくしょっぱくなったことがあります。その時は本当に塩の威力を思い知らされました。
 また逆に、料理をしていて、ほんの少しの塩が、その食材を本当においしくする、劇的にその味を変える、いや味を変えるのではなくて、その食材の味をより一層引き立たせて美味しくすることも実感してきました。
 
 イエス様は言います。「あなたがたは地の塩である」。この言葉をイエス様はマタイ5章の「山上の説教」(Sermon on the mount)の中で言っています。
51節から12節で、イエス様は集まった群衆と近くに来た弟子たちに向かって“幸いな人”とは、どういう人であるかを繰り返し言います。
「心の貧しい人」(3節)、「悲しむ人」(4節)など、普通なら幸せとは言えない人たちが「そういう人たちは幸せだ!」とイエス様は言うのです。
イエス様の話を聞いていた人の中には、苦しい生活をしていた人、悲しみの中にいた人たちがいたのでしょう。そんな人たちはこのイエス様の言葉を聞いて、慰められ、力を受けたはずです。
 イエス様は弱い人たち、周りから罪人と言われていた娼婦や取税人、病人(当時は重い病にかかった人も、それはその人の罪が原因で病気にかかっているのだ、だから“罪人”だと、言われていました)と交わって、そのような人たちと共に歩みました。
 イエス様がここで語りかけていた人たちの多くは、おそらくそれまで他人から自分の価値を認めてもらったことがないような人たちではなかったかと思います。
どこに自分の価値があるのか分からない。いや、自分には何の価値もない、ずっとそう思って生きてきた人たちです。
その人たちに向かってイエス様は言うのです。5章の1節から、「あなたがたは幸いだ!」とイエス様は宣言するのです。とても幸せには思えないような人たちに向かって「あなたたちは幸せなんだ!」と。
 
そして今日の箇所ではイエス様は「あなたたちは地の塩だ」と言うのです。
「地の塩」、これは人を評価する最大限の賛辞です。人の価値を認めるのにこれ以上の表現はないと言われます。ローマ人は「太陽と塩ほど役に立つものはない」と言ったそうです。
 そして14節では「あなたがたは世の光だ」と断言します。これもこれ以上ないほどの賛辞です。
ヨハネによる福音書で、イエス様はご自身のことを“世の光”と言います。ヨハネ812節「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ですから、本来イエス様こそが“世の光”なのです。しかし、イエス様はその“世の光”というご自身の栄光さえも、人々に、私たちに、与えて下さったということです。
 ここでイエス様がおっしゃる“地の塩”、“世の光”とは、“たった一つのかけがえのない塩”、“たった一つのかけがえのない光”という意味でもあります。ギリシア語とまた英語には“塩”と“光”に定冠詞(英語で言えば”the”)がついているからです。
 ここでの定冠詞の意味は「唯一の」という意味と理解してよいと思います。
 イエス様は私たち一人ひとりを、たった一人のかけがえのない存在として、そしてこの世界になくてはならない存在として、“地の塩”であり“世の光”だと認めてくださるのです。
 
 あなたがたは地の塩である(13節)と、あなたがたは世の光である(14節)はいずれも現在形です。
“あなた方は地の塩になるだろう”とか、“あなたがたは世の光になるだろう”ではなく、“あなた方は地の塩だ”、“あなたがたは世の光だ”と事実としてイエス様は言い切っているのです。
 “地の塩のようになりなさい”、“世の光のようになりなさい”という命令形でもありません。あなたがたは既に地の塩であり、世の光だと、イエス様はおっしゃるのです。
このように“あなたがたは地の塩だ”“あなたがたは世の光だ”とイエス様が認めて下さっているのですから、私たちは自分自身の価値に自信を持っていいのです。イエス・キリストの言葉に基づいてです。
 それでも、自分は本当にそれほどの存在だろうか?そんな疑問がわきませんか。一体自分に何が出来るのだろう。自分には大した信仰もないと。。。
 しかし、信仰の大きい小さいは関係ありません。
ほんの少しの塩でも、それによって料理はとてもおいしくなります。地の塩と言われる私たちも、それと同じです。
ほんの少しの信仰でも、ほんの少ししかいないクリスチャンでも、塩が料理の中で調味料として決して目立たない存在であっても大きな効果を発揮するように、私たちの存在により、世の中が味のあるものになるのです。
 
 さて、13節の続きを読んでみましょう。
「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
これはとても厳しい言葉です。
 塩に塩気がなくなれば、とはどういう意味でしょうか。
塩は料理に使われてこそ、食べ物と混ぜられてこそ、その価値を発揮します。塩はただ単独で存在するだけでは、そこにあるだけではせっかくの価値が無駄になってしまうのです。
“塩”のように価値がある私たちも、ただ私たち一人だけで存在していては、その価値は発揮されないのです。
私たちキリスト者は、そして教会は、私たちの周りの人と関わり、社会と関わり、交わりを持って生きるのです。そうでなければ、塩の価値が活かされないからです。
このイエス様の厳しい言葉の中には、イエス・キリストによって私たちは価値あるものとされているという恵みと、その恵みを受けた者に課せられた大きな責任、の両方が含まれています。
 今までの宣教でも何度か述べましたが、当時のユダヤ人たちは、「自分たちはイスラエルの民だ」、「自分たちはアブラハムの子だ」という意識で、それが救いの条件である、と特権意識を持っていました。
 私たちも、イエス・キリストを信じているから救われている、と心のどこかで安心しきって、イエス様の御言葉が本当に自分の生き方になっているかをいつも真剣に吟味することを怠らないように、ここで促されているのです。
 
 14節を読みましょう。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とあります。
 私たちは、自分の信仰を自分たちの内だけに、この教会の中だけにとどめておくことはできないのです。山の上にある町のように、信仰は隠しておけないものです。
 先々週の礼拝では、第一礼拝と第二礼拝でも、ずっと玄関の扉が開いていました。
 実は、第一礼拝の始まる前に、少し風を通そうかと思って、私が開けたままにしておいたのですが、それがそのまま第二礼拝の終わりまで、開いたままでした。
 講壇から宣教をしながら、玄関が開いた様子が見えましたが、外を歩く人が、少しこちらを見て、中で何が行われているのかが外から見えるのもいいな、と思いました。
 いつも物理的に扉を開けているかどうかは別として、私たちの教会の扉が常に外に向けて開かれているかどうかは大変重要です。
 
 別府国際教会は、いつも扉を外に対して開いています。色々な背景や文化を持つ人たちが集まっています。私たちは私たちの多様性を喜びます。私たちは、これからも私たちの教会の扉を外に向けて開けていたいと思います。
そしてクリスチャン同士も、お互いの心の扉を外に向けて開けていたいと思います。他の兄弟姉妹同士との交わりを大事にし、お互いを認め合い、教え合って、励まし合うことを、これからも是非大切にしていきましょう。
 私たちの教会の塔の部分にはステンドグラスと十字架の形の窓があり、夜になると照明で光っています。とてもきれいです。
私たちがイエス様の教えに従って生き、イエス様から愛されているという平安で日々を生きるとき、そんな私たちの様子はきっと、夜に輝く十字架のように見えるのだと思います。
 自分にそんな光なんてあるだろうか、と思われるでしょうか。
あるのです。なぜならその光は、それは私たち自身の中から輝く光ではなく、イエス様からいただく光だからです。
 2コリント4:6(2 Corinthians 4:6)
「闇から光が輝き出よ。と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」
神が、神の栄光を悟る光を私たちの内に与えてくださいました。
神の光が私たちの中に宿っています。この光によって私たちは神を知り、この光によってどうやって日々生きるのか、どの道へ進むのかを示されるのです。
 
そして今日の箇所の最後のマタイ516節です。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。
私たちの立派な行い(good deeds)を見て、それを見た人々が私たちをあがめるのではなく、天の父をあがめるのです。
神の栄光を表すこと、これはわたしたちの人生の目的です。
私たちが持っている光を私たち自身のために輝かすのではなく、神のために輝かすのです。
 さて、ここで“立派な行い”とはどういうことでしょうか。道徳的に立派な行いということでしょうか?
 私はこの“立派な行い”(good deeds)とは、人が賞賛するような素晴らしい行動のその外見的なことよりも、キリスト者として、イエス・キリストを信じて、イエス様の御言葉に従って幸せに生きる、という人間の内面のことではないかと思います。
 水曜日の祈り会では、今ヨハネ福音書を最初から学んでいます。どうぞ皆さん、水曜日の聖書の学びと祈り会にもお時間がある時に、いらしてください。ともに聖書を学び、お互いの祈りの課題を分かち合うことは私たちの信仰の絆を強くします。
 ヨハネ福音書の最初から学んでいると、まずバプテスマのヨハネ(John the Baptist)の存在の大きさに気づかされます。イエス様はヨハネからバプテスマを受けたのです。元々地上のイエス様は、ヨハネから色々と教えを受けたのではないかと思います。
それでもバプテスマのヨハネの言葉から一貫して分かるのは、彼がいかに栄光を自分ではなく、イエス・キリストに帰そうとしているかということです。
ヨハネによる福音書330節では「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。
 私たちの中で、イエス・キリストこそが栄えて、“わたし”(self)は衰える。そうすると、“私が、私が”という自己中心的な思いから私たちは自由になれるのです。
 神と他人に喜んで仕えることができるようになるのです。
神の栄光を喜ぶことこそが、私たちが最も平和に、人間らしく、生きる道である、と聖書は伝えています。
 
 さて、今日の言葉はすべて“あなたがた”に向けられて語られています。この“あなたがた”とは今日この言葉を聞く“あなたがた”、今ここに集う私たちです。すなわち私たち教会です。
 別府国際バプテスト教会が地の塩であり、世の光なのです。
 イエス・キリストを頭とするこの教会に連なり、イエス様に価値あるものと認められていることをますます知っていきましょう。
 私たちの教会は、地の塩、世の光として、この世に大きな影響を及ぼすことができるのです。世界を変えることができます。大げさだと思われますか?決して大げさではありません。
私たちが神を信じ、イエス・キリストとの親密な関係の中に自分を置いて、地の塩、世の光としての責任を喜びを以て果たしていくとき、世の中は変わっていくのです。
例えば、私たちの働きによって、新たにイエス・キリストを信じる人が一人でも起こされるのならば、それだけでも世界は大きく変わったことになるのです。
 ですから私たちは自信と喜びを持ってよいのです。
今週も、イエス・キリストが私たちを「地の塩、世の光」だと認めてくれているのだと自信を持って、希望の光を携えて、それぞれの場へと遣わされて行きましょう。
そして私たちの日々の行いが、主がますますあがめられるために用いられますように、祈りつつ歩んでまいりましょう。(酒井朋宏)
 

2017年5月30日火曜日


2017528日 宣教



創世記1章1~5

「闇に輝く神の光」

 

初めに神は天地を“そうぞう”された。

この文章をそのまま、例えば小学校低学年ぐらいのこどもに語ったとしたら、その子はその言葉からどのような状況を思い浮かべるでしょうか。

 “そうぞう”(SouZou)

もしもこどもであれば、または大人であっても聖書物語に馴染みのない人であれば、“創造”をもう一つ別の意味の日本語の“そうぞう”に理解する可能性はないでしょうか。神は天地を “そうぞう(想像:imagine)”された。

実はこれは私が考えたことではなく、ジョナサン・マゴネットというユダヤ教のラビ(rabbi)から聞いた話です。マゴネット先生は西南学院大学の神学部の客員教授として、毎年来日され、神学部の学生たちに旧約聖書についての講義や講演をしてくださっています。ちなみに、このマゴネット先生は「キング・ダビデ」という映画でリチャード・ギアと一緒に映画にも出ているそうです。私はまだその映画を見ていませんが、リチャード・ギアが演じるダビデの結婚式の司式役で少しだけ出ているそうです。そしてその映画で、聖書の知識に関するアドバイザー役も務めたと言っていました。マゴネット先生はイギリスのユダヤ人家庭に生まれ、ご自身のことを“自分はイギリス人”だと認識しておられますが、20歳ごろからヘブライ語を学び直し、正式にユダヤ教のラビの資格を取り、ロンドンにあるレオ・ベック大学Leo Baeck Collegeというユダヤ教の神学校の学長も務められました。先生は日本語も学ばれており、“そうぞう”という日本語が、“創造”と“想像”と両方の意味があることを知り、創世記の冒頭部分を「神は天地を“想像”された」と読めば、それはまた別の面白い意味を持つ、とおっしゃっておられました。

 確かにそれは面白い“想像”ではありますが、しかし、神はこの世界をただ“想像”されたのではありません。イエス・キリストの神は、この世界をお造りになりました。神は世界を“創造”されたのです。この「創造する」を意味するヘブライ語の動詞“バーラー”(ba-la)は、神にしか使われない動詞です。人が何かを作ったりするときには使われません。このことからも、聖書は、世界の創造は神にしかできない業である、と伝えているのです。私たち人間は、すでにある物を利用して何かを作ることはできます。

 しかし、何もない状態から何かを生み出し、それらに生命を与えて生かすことは神にしかできないことです。 この世界を無から創造することは神にしかできない、世界は神によって造られた。そのような信仰が創世記11節、聖書の冒頭の言葉には込められています。

 
そして、「初めに神は天地を創造された」というこの言葉は、私たちに、“あなたは何を信じて生きるのか?”と、人としての生き方の根本を問う言葉でもあると思います。それは、この世界は神によって造られたのであり、私たち生きる者はその生きる命の根拠を神に拠っていることを信じて、それを受け入れて生きるのかどうか、という呼びかけです。
世界の始まりがどうであったか、そういうことは一切考えないという生き方もあります。神様なんて信じない、もしくはいくら考えても確かには分からないのだから、分からないことはそもそも考えないという生き方もあるでしょう。または、この世は所詮ただの夢(想像?)のようなもの、少しでも楽しく生きていけばそれでいいんじゃないか、という生き方。そこまで刹那的ではなくても、世界の始まりとか、人生の目的とかそういうことは真剣には考えないという生き方です。そのような生き方ではなく、この世界と私たちの命をお造りになった創造主を認めて、そしてその創造主は何らかの目的をもってこの世界とそしてこの私をも造られたはず、そう信じて生きるかどうかを決断するように迫る言葉が創世記の最初の言葉です。


 もう最初から結論ですが、聖書は“あなたの造り主を覚えなさい”、この世界と私たちの命は神がおつくりになった、その創造主を知って生きていくようにと、よびかけます。

 コヘレトの言葉の121節にこうあります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」

創世記一章はそれにしても不思議な物語です。クリスチャンでない人には、クリスチャンがこんな非科学的なことを信じていることが、とても不思議に思えるかもしれません。見てもいないのになぜこんなことが分かるのか?そうです、誰もこの世界の始まりの様子を見た人はいないのです。この創世記を書いた著者も、神がこのように世界を造った様子を傍にいて見ていたわけではありません。しかし、創世記を書いた著者は、(それはおそらく一人ではありません。創世記は、長い年月をかけて、一人ではなく多くの信仰者達によって伝えられ、徐々に完成された物語です)彼らが与えられた信仰の目を通して(見た)、理解した世界の創造を記したのです。目には見えなくても、信仰者にとって確実なことは、この世界は神によって造られた、ということです。私たちクリスチャンがすべきことは、たとえこの創造の物語が、非科学的であり証拠を示して確認することが難しいとしても、“世界は神によって造られた”という信仰に生かされることが、そしてその神とはどのようなお方であるのかを知って生きることこそが、人を真に人らしく生かすのだということを、自らの生き方で表すことです。

 

 2節に「地は混沌(formless and empty)であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた」と書かれています。地は混沌である、むなしい(formless and empty)。私たちの周りの世界が、また私自身の心がこのように形がなく不安定で、目的もなくむなしい、そのように思える時がないでしょうか。これは神のいない状態です。または私たちが神を受け入れない場合、世界がどのように感じられるのかを表している言葉です。土台がないので不安定です。どこに立っているのかの確信がありません。すべてに目的も何もないのですから、空虚です。イエス・キリストを知らずに生きていたころの私は、自分を支える土台が何であるかがはっきりとしない、不安定な生き方をしていたと思います。いや、不安定であることにさえ気づいていなかったかもしれません。


 意識的に、または無意識的に、何かを自分の拠り所にしようとしていたと思います。それは自分の持っている能力、経験、自分で建てた将来への計画や夢、お金?または自分自身?そういったものだったと思います。聖書の中で、キリストの故にそれ以前の生き方を完全に変えられ、それまで持っていた人間的には良いと思えるものを、神のすばらしさの前に完全に放棄した人物がいます。


それはパウロです。



フィリピ356

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」ユダヤ教徒として、生まれも育ちも知識も教養も、熱心さにおいても非のうちどころがなかったパウロ。今風に言えば完全な「勝ち組」だったはずのパウロも、つづく7節でこう書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」。パウロは、どれほど熱心に律法を学び、それを守っても、それらによっては本当の平安を得ることができないと思っていたのでしょう。自分にとって確固とした土台となるようなものを感じられなかったのだと思います。しかし、彼は復活の主イエス・キリストと出会い、最後はおそらくローマで殉教しただろうと言われますが、イエス・キリストのゆえに、彼は、困難は多くとも、確実でそして幸福な人生を生きました。神のない状態、土台がなく目的のない状態の中に、神の光が差し込みます。3節「神は言われた “光あれ”。こうして光があった」神の言葉によって闇の中に光が起こされました。「深淵」(deep)という不気味な状態も、神の造られた光に照らされてはっきりとその姿(正体)を現します。闇の中に光を起こされた神の言葉は、私たちの心の中の闇にも大いなる光をともされます。闇の中で先の見えないような状態であっても、神の言葉によってその中に光が差し込むのです。

この創世記が書かれたのは、バビロン捕囚の時代であったと言われます。イスラエルの民が強国バビロンに捕囚として捕らえられていた時代です。故郷から遠く離れた異国での捕囚生活のなか、ユダヤ人たちは厳しく希望のない生活をしていました。しかし彼らは、そのような苦しい境遇の中にも、神の“光あれ”という声を聞いたのです。信仰の耳によってその声を聞いたのです。闇の中に神が一声を発してくださいました。神の慈愛に満ちた力強いこの一言を、今の私たちはどのように聞くことができるでしょうか。


今は、神の言葉、そして神の光はイエス・キリストを通して私たちに与えられています。私たちの心の中の闇も、または私たちの周りの闇と思えるような状況も、神の言葉であり光であるイエス・キリストを私たちが受け入れていれば、それがどんなに深い闇であっても私たちを支配すること決してない。聖書はそう伝えています。


新約聖書のヨハネによる福音書は「初めに言があった。」で始まります。この「初めに言があった」と、創世記の神の「光あれ」という言葉は、同じ一つの真実を指し示しています。神であるイエス・キリストは世の初めから存在しており、イエス・キリストの言葉によりこの世界は創造されて、始まったという真実です。

 創世記145

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である

神の言葉によってできた光に照らされたその日から、私たちの本当の命の日は始まる。それが「第一の日」という意味です。今日は日曜日です。一週間の最初の日です。先週一週間それぞれの重荷を背負って、重い気持ちで今の礼拝の時を迎えておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私たちは神を礼拝することによって、神の言葉を頂いて、神が見て“良し”と言われた光の中に生きていく思いを新たにさせられます。神が“良し”とされた光が私たちに注がれている。光とは、即ち、み言葉です。

「あなたの御言葉は私の道の光」と詩編の著者は述べています。(詩編119105

 聖書の御言葉が闇を照らし、そして私たちの進む道を照らしだすのです。 
今日の最後の5節には「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とあります。

ユダヤの時間では、一日は日没から始まります。例えばクリスマス・イブというのは、クリスマスのイブニング(晩)という意味です。1224日の日没の時点で、すでに1225日が始まっていると考えるからです。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神がこのように一日の秩序を定められました。夕方という時間をみなさんはお好きですか?皆さんは一日のうち、どの時間が一番お好きですか。季節によっても違うかもしれませんが、一日の業を終えて、ほっとする時間。家に帰る時間。夜にもまだ仕事はあるかもしれませんが、昼と夜の間の時間は、つかの間の休息の時間ではないでしょうか。そして夜に人は休みます。夜は私たちが休むときであり眠る時です。そのような生活時間の秩序を神が定めてくださったのです。

 創世記は神の創造の業が6日間で完成されたと伝えているでしょうか?

 違います。

創世記2章の初めに「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」と書かれます。神が7日目に休まれたことを含めて「天地万物は完成」されたのです。私たち人間も、ただ活動的であるだけではなく、働きを止めて休むこと、憩う(いこう)ことが必要であり、それも生きる目的の一部であるのです。皆さん、一週間の生活の中で、ほんとうに忙しく自分の時間の無い方、余裕の無い方もいらっしゃると思います。それでも、私たちの生きる時間も主がお造りになって、私たちはいつも主の許で休むことができるのだということを、しっかりと覚えたいと思います。

私たちは日曜日に礼拝を捧げ、この礼拝から私たちは新しい一週間を始めます。この礼拝から、それぞれの生活の場へと遣わされていきます。そして一週間の生活を終え、来週また教会へ神を礼拝するために戻ってきます。それはなんの意味もないただの繰り返しではありません。見た目には同じことの繰り返しで変化のないような生活に見えたとしても、神の言葉に生かされ、礼拝を中心に生きる生活は、土台のしっかりとした意味のある生き方となります。

最後に創世記131節をお読みします。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」

神はご自分のお造りになったものをすべて “極めて良し”と見られました。その世界の中に私たちは生きています。この世界を作られた神を認めて、神が造られた秩序の中に、神様の意志と慈しみを覚えながら、今週の日々もまた一日一日を歩んでまいりましょう。混沌とした世界に見えても、先の見えない不安に駆られるとしても、この世界を創造され、闇の中に光を起こされた、神の絶大な力と深い愛に委ねて、生きていきたいと思います。(酒井朋宏)