2017年7月24日月曜日


                                                        スケジュール


■7月26日(水)聖書の学びと祈り会
10:30~12:00と19:30~21:00の2回
ヨハネによる福音書から学び、共に祈りの時を持っています。
次回(ヨハネによる福音書5章19節~30節)


■次週主日礼拝 7月30日(日)
第一礼拝 9:00~9:50
教会学校 10:00~10:45 (小中科、高青年科、成人科、国際青年科)
第二礼拝 10:50~12:15
礼拝宣教 「主なる神は土の塵で人を形づくり」
創世記2章4~9節  宣教者 酒井朋宏


■フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF) 
*大学の夏季休暇中はFFFはお休みです。10月6日(日)より再開します!
FFFは、毎週金曜日19:00~から、当教会を会場にして開かれている
超教派クリスチャン、国際交流の集まりです。歌、ゲーム、信仰に関する
ディスカッションなど。教会に興味のある方、英語を通した国際交流に
興味のある方、皆さん気楽にご参加ください!

7月23日(日)
                                                        マタイによる福音書6章12~15節
                                                                    赦し~主の祈り(2)


 先週から私たちは、マタイによる福音書の中の、イエス様が教えてくださった“主の祈り”の部分を読みながら御言葉に聴いています。
イエス様は、祈りの言葉の一つひとつを具体的に教えてくださっています。
私たちが祈る相手は“天におられるわたしたちの父”です。天の父なる神とは“わたしだけの父”ではなく、同じ神を信じる信仰の兄弟姉妹、私達すべての者の父であり神なのです。
イエス様は信仰の共同体である教会の私たちが、心を合わせて共に祈ることのできる祈りとして、この主の祈りを教えてくださいました。
 今日はマタイの主の祈りの後半の部分に、共に聴いてまいりましょう。
12節は「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」です。
 “負い目”とは借金です。借金であれば普通は返さなくてはなりませんが、イエス様は“わたしたちの負い目(借金)を赦してください”と祈りなさいと言います。“自分で返します”ではないのです。
 ルカによる福音書の同じ箇所では、ここは“負い目”ではなく、“罪”と書かれています。
 「わたしたちの罪を赦してください」(ルカ11章4節)
 負い目とは、ルカがはっきり書いているように、わたしたちの“罪”のことなのです。
 私たちが唱える主の祈りでも「われらに罪を犯すものを我らが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ります。
マタイは“罪”と言う言葉を直接使わずに、“負い目”という言葉を使うことによって、罪とはどのようなものであるか、ということを私たちによく考えさせようとしているのだと思います。
 この“罪”とは、理解するのが難しい概念です。聖書は“人は皆罪人である”と教えます。
“ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです”(ローマ3:9)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(ローマ3:23)

聖書のこのような言葉を見ると、大抵の人たちは反発すると思います。そして私たちクリスチャンも“罪”というものが、本当は実はよくわからない、ということがないでしょうか。
わたしたちはこのように思うのではないでしょうか?
“わたしはそれほど善人ではないかもしれないが、それほどの悪人でもない。まして罪人などではない”。
 
 マタイは“罪”を“負い目”=“借金”と言いかえましたが、イエス様のたとえ話で、巨額の借金をした人の話がマタイ18章にあります。マタイ18章21節からの「仲間を赦さない家来のたとえ」です。
 そこではまずイエス様の弟子のペトロがイエス様のところへ行き、こう尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか?」
ペトロはイエス様と一緒にいてその教えを学びながら、人を赦すことの大切さはよく分かっていたのでしょう。7回も同じ人を赦そうというのは、たいしたものです。
でも「7回赦せばいいですか?」の言葉の裏には“神の教えというものは、一体どこまで達成すれば合格点がもらえるものなのか?”という思いがあります。目に見える基準とか上限をはっきりさせようとする気持ちです。
 何回赦せばいいのか、と目に見える基準(ノルマ)を設定して、それをクリアすれば、合格点、救いが得られる、という考えです。
 しかしイエス様のおっしゃる赦しの基準は違います。ペトロの質問に、イエス様は「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と答えます。
七の七十倍(490)とはほとんど“無限”を意味する表現です。無限に赦せ、こんなことが人間に可能でしょうか?
 ここでイエス様が一つのたとえ話をします。ある王の家来が王に一万タラントンの借金をしていた、という話です。その家来は王の憐みを受けて借金を帳消しにしてもらいました。
ところが、この家来は、百デナリオン(100万円)を自分から借りている友人の借金を赦さずに借金を返すまでその友人を牢に入れました。それを見た別の仲間たちがその一部始終を王に告げると王は怒り、その家来を牢獄に入れた、という話です。
 18章35節
 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。
 ところで1タラントンはいくらだと思いますか?
1タラントンは何と今のお金では大体6000万円です。とすると一万タラントンは6000万円の1万倍ですから6000億円。はっきり言って私たち庶民には全く現実感覚のわかない金額です。
この家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言いますが、絶対に返せない金額のはずです。返せないどころか、そもそもどうやって一人でそんな金額の借金をしたのか謎であり想像もできません。
イエス様は、1万タラントンの借金に例えて人の罪の話をしているのです。そのポイントは、一万タラントンのように、私達が自分の罪について“想像できない”“現実感覚がわかない”というところにあります。
つまり私たちは、私たちの罪というものが何だか分からないのです。私でも分かっていないのです。
罪人と言われて私たちが反発するのは、私たちが、いわゆる罪、つまり“犯罪”とか“悪い事”(盗むとか、噓をつくとか)、私達が日常で犯す可能性のある、自分でも自覚することができるレベルの“悪い事”を思い浮かべるからです。
しかし聖書の伝える罪とは、そういう罪とは次元の違う、もっと人間の根本的な性質に関わるものです。
私達が自分自身の知識や思考では決して理解することはできず、まして自力では決して返すことのできない負い目、それが罪です。
そしてイエス様はこの罪を“わたしたちの負い目”、つまり“わたしたちの罪”と言います。つまり罪とは人間全体の罪である、と言われているのです。これも私達が理解するのが難しい点です。
ローマの信徒への手紙5章12節にパウロはこう書いています。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
ここでパウロが言う“一人の人”とは創世記に出てくる、最初の人間アダムのことです。
創世記2章16~17節
「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
神ははっきりとアダムに警告していました。“食べると必ず死ぬ”。神は曖昧な言い方はされませんでした。“食べると良くない”、とか“死ぬかもしれない”ではなく、“食べると必ず死ぬ”と明確に伝えていました。
 アダムはこの主の言葉を守ることができず、その結果主なる神と人間の間に、埋めることのできない溝ができました。神と人との関係が人間の側から壊された、と創世記の物語は伝えています。
創世記のこの物語は、クリスチャンであっても、本当に自分に関係のあることとして理解するのは難しい箇所ではないでしょうか。アダムが犯した罪の結果を、なぜ私達が負わねばならないのか。それは連帯責任とういことでしょうか?
 しかし聖書はこれが人の罪の始まりであり、罪の本質であると伝えるのです。アダムが犯した罪、それは“善と悪を判断すること”、それは本来神にしかできないことなのに、神にしかない力を自分が神に成り代わって自分自身の内に持とうとする、そのような私達人間の思い、それが罪です。
自分が自分の中心。そうなると、私たちは自分自身の基準で他人を裁くようにもなってしまいます。
 もし100デナリオン(大体100万円です)の借金を自分に返さない人がいたら、私も怒ると思います。ところが、そうやって怒る私は、自分が一万タラントンの借金を赦されている、つまり自分の罪がイエス・キリストの十字架によって赦されている恵みを普段忘れているのです。
イエス・キリストの十字架の死によって私達は赦されました。十字架のイエス様がどれほど私達に平安を与えてくれるかを思うと、一万タラントンに例えられる私達の負い目=罪というものが見えてきます。
私たちは自分の罪というものが自分ではわかりません。私たちは、イエス・キリストの十字架を通してのみ、自分の罪を自覚することができます。
キリスト教の伝える罪とは何であるのか?それは、神の子イエス・キリストがわたしたちのために十字架に掛かって死んでくださった、その事実に私たちが向き合うことによって、初めて明らかになるものであり、イエス様の十字架を通して初めて私たちに示されるものです。
私たちはいつも主イエスの十字架の恵みに目をとめて、感謝する者でありたいと思います。
12節の後半は「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」そして14節でも、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」とあります。
15節は「しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
これはとても厳しい言葉です。
  “わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように”の中の“赦す”というギリシア語の動詞“アフィエーミ”には“解放する” という意味もあります。
 自分に負い目のある人を“解放する”。これは、自分に罪を犯した人への怒りの感情に囚われて、そのような負の感情に自分が支配され続けることを止めて、そういう感情を手放しなさい(解放しなさい)、そうすることで私たち自身の心が解放される、という意味もあるのではないでしょうか。
 そういう解放の力、赦しの力を、私たちは主なる神に祈ることで神から頂くことができるのです。
主なるイエス・キリストは十字架の上で死なれるときに、自分を十字架にかけた人たちのことを「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。(ルカ23章34節)
これは私たち人には絶対にできない祈りです。自分にはできない祈りであっても、そのイエス様の祈りの言葉に私達自身を任せればよいのではないでしょうか。
 もう一度14~15節をお読みします。
 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」
 ここを何度も読んで、“どうしても人を赦せないこともある”と私たちは思ってしまわないでしょうか。
しかし、よく考えてみますと、この箇所は、イエス様が私達に何かの戒めを与えようとしているのではなく、ここはあくまで祈りを教えてくださっている箇所なのです。
 このイエス様の言葉は、こうしなくてはいけない、頑張って自力で解決しなさい、ではなく、これは祈りの言葉なのです。ですから“こんなことはできない”と諦める前に、私たちはまずイエス様に信頼をして、イエス様の教えてくださった通りに神に祈ればよいのです。
“こうしなくてはいけない”という決まりや戒めとしてではなく、神に寄り頼んでお願いすればよい、祈ればいいんだよ、という希望と慰めの言葉がここにあるのです。
 
 最後に13節の“誘惑”について考えましょう。
 「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
  誘惑とは“試練”という意味にもなります。
試練であれば、私たちは人生の試練に向き合わなくてはいけないのではないでしょうか。試練を恐れずに果敢に向き合って、試練に打ち勝つことを学ばなくてはいけないのでは?私たちは強くならなくてはならないのではないでしょうか?
 しかしここで言う誘惑とは、罪に至るほどの誘惑の力です。私達が自分の力で乗り越えることのできない悪の力です。神に敵対する悪の力から私たちを救い出してください、と神に信頼して祈ることが言われているのです。
 イエス様は、私たちを罪にまで至らせる誘惑の力がどれほど強いものかを知っていました。イエス様ご自身が荒れ野で悪魔の誘惑を耐え忍ばれました。(マタイ4章)
この主の祈りはイエス様ご自身も必死に祈られた祈りです。だから、このように祈れば必ず天の父は聞いてくださるし、これこそが私たちに力を与える祈りだと、イエス様ご自身が自分の経験と確信をもって教えてくださった祈りです。
 誘惑、試練に対抗するには、私達には神の助け、神の言葉が必要です。“悪い者からの誘惑”とは簡単に対抗できるものではありません。もし私達人間が、自分の力で打ち勝つこのできる程度の誘惑であれば、そもそもそれは聖書の言う誘惑ではありません。
 信仰を持っていても誘惑がくることは避けられません。しかし私たちは主に寄り頼んで、“誘惑に遭わせないでください”と正直に祈ってよいとイエス様は言うのです。
私たちは、主の祈りの特に今日の箇所を祈ることで、私たち自身の中には人を赦す力がなく、赦す力は神から頂くことを知ります。そして私達の持つ罪について自覚します。罪赦された恵みを神に感謝したいと思います。
  イエス様が教えてくださったこの主の祈りによって、私たちはいつもまっすぐ正直に神に向かって祈ることができます。イエス様が教えてくださった主の祈りの言葉の力に信頼をし、今週も主に向かって祈る者でありたいと願います。 (酒井朋宏)

2017年6月27日火曜日


625日(日)宣教
マタイ福音書51316
「地の塩、世の光」

皆さんは料理することがお好きでしょうか?
 
私は料理をすることが嫌いではないのですが、あまり上手には出来ません。料理の本を見ながら、その通りに何かを作ることはできると思います。しかし、自分で作れる料理の数はとても限られています。ハンバーグ、カレーライス、肉じゃが??
 “自分で料理が色々できるようになるといいな”、“料理ができると格好いいな”とは思います。今までに何度か“料理が上手になりたい”と思って、努力はしたのですが、なかなか一人で色々な料理が作れるようなレベルにはなりません。
料理の話をしたのは、今日の箇所の“地の塩”という言葉から、塩といえば料理に欠かせないもの、ということを思ったからです。
 塩は料理にとても重要なものです。
実は私は自分で料理していて、塩と砂糖を見事に間違えてしまったことが二回あります。
玉子丼とあともう一つ何か他の料理を作ったときに砂糖の代わりに塩を入れてしまい、ものすごくしょっぱくなったことがあります。その時は本当に塩の威力を思い知らされました。
 また逆に、料理をしていて、ほんの少しの塩が、その食材を本当においしくする、劇的にその味を変える、いや味を変えるのではなくて、その食材の味をより一層引き立たせて美味しくすることも実感してきました。
 
 イエス様は言います。「あなたがたは地の塩である」。この言葉をイエス様はマタイ5章の「山上の説教」(Sermon on the mount)の中で言っています。
51節から12節で、イエス様は集まった群衆と近くに来た弟子たちに向かって“幸いな人”とは、どういう人であるかを繰り返し言います。
「心の貧しい人」(3節)、「悲しむ人」(4節)など、普通なら幸せとは言えない人たちが「そういう人たちは幸せだ!」とイエス様は言うのです。
イエス様の話を聞いていた人の中には、苦しい生活をしていた人、悲しみの中にいた人たちがいたのでしょう。そんな人たちはこのイエス様の言葉を聞いて、慰められ、力を受けたはずです。
 イエス様は弱い人たち、周りから罪人と言われていた娼婦や取税人、病人(当時は重い病にかかった人も、それはその人の罪が原因で病気にかかっているのだ、だから“罪人”だと、言われていました)と交わって、そのような人たちと共に歩みました。
 イエス様がここで語りかけていた人たちの多くは、おそらくそれまで他人から自分の価値を認めてもらったことがないような人たちではなかったかと思います。
どこに自分の価値があるのか分からない。いや、自分には何の価値もない、ずっとそう思って生きてきた人たちです。
その人たちに向かってイエス様は言うのです。5章の1節から、「あなたがたは幸いだ!」とイエス様は宣言するのです。とても幸せには思えないような人たちに向かって「あなたたちは幸せなんだ!」と。
 
そして今日の箇所ではイエス様は「あなたたちは地の塩だ」と言うのです。
「地の塩」、これは人を評価する最大限の賛辞です。人の価値を認めるのにこれ以上の表現はないと言われます。ローマ人は「太陽と塩ほど役に立つものはない」と言ったそうです。
 そして14節では「あなたがたは世の光だ」と断言します。これもこれ以上ないほどの賛辞です。
ヨハネによる福音書で、イエス様はご自身のことを“世の光”と言います。ヨハネ812節「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ですから、本来イエス様こそが“世の光”なのです。しかし、イエス様はその“世の光”というご自身の栄光さえも、人々に、私たちに、与えて下さったということです。
 ここでイエス様がおっしゃる“地の塩”、“世の光”とは、“たった一つのかけがえのない塩”、“たった一つのかけがえのない光”という意味でもあります。ギリシア語とまた英語には“塩”と“光”に定冠詞(英語で言えば”the”)がついているからです。
 ここでの定冠詞の意味は「唯一の」という意味と理解してよいと思います。
 イエス様は私たち一人ひとりを、たった一人のかけがえのない存在として、そしてこの世界になくてはならない存在として、“地の塩”であり“世の光”だと認めてくださるのです。
 
 あなたがたは地の塩である(13節)と、あなたがたは世の光である(14節)はいずれも現在形です。
“あなた方は地の塩になるだろう”とか、“あなたがたは世の光になるだろう”ではなく、“あなた方は地の塩だ”、“あなたがたは世の光だ”と事実としてイエス様は言い切っているのです。
 “地の塩のようになりなさい”、“世の光のようになりなさい”という命令形でもありません。あなたがたは既に地の塩であり、世の光だと、イエス様はおっしゃるのです。
このように“あなたがたは地の塩だ”“あなたがたは世の光だ”とイエス様が認めて下さっているのですから、私たちは自分自身の価値に自信を持っていいのです。イエス・キリストの言葉に基づいてです。
 それでも、自分は本当にそれほどの存在だろうか?そんな疑問がわきませんか。一体自分に何が出来るのだろう。自分には大した信仰もないと。。。
 しかし、信仰の大きい小さいは関係ありません。
ほんの少しの塩でも、それによって料理はとてもおいしくなります。地の塩と言われる私たちも、それと同じです。
ほんの少しの信仰でも、ほんの少ししかいないクリスチャンでも、塩が料理の中で調味料として決して目立たない存在であっても大きな効果を発揮するように、私たちの存在により、世の中が味のあるものになるのです。
 
 さて、13節の続きを読んでみましょう。
「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
これはとても厳しい言葉です。
 塩に塩気がなくなれば、とはどういう意味でしょうか。
塩は料理に使われてこそ、食べ物と混ぜられてこそ、その価値を発揮します。塩はただ単独で存在するだけでは、そこにあるだけではせっかくの価値が無駄になってしまうのです。
“塩”のように価値がある私たちも、ただ私たち一人だけで存在していては、その価値は発揮されないのです。
私たちキリスト者は、そして教会は、私たちの周りの人と関わり、社会と関わり、交わりを持って生きるのです。そうでなければ、塩の価値が活かされないからです。
このイエス様の厳しい言葉の中には、イエス・キリストによって私たちは価値あるものとされているという恵みと、その恵みを受けた者に課せられた大きな責任、の両方が含まれています。
 今までの宣教でも何度か述べましたが、当時のユダヤ人たちは、「自分たちはイスラエルの民だ」、「自分たちはアブラハムの子だ」という意識で、それが救いの条件である、と特権意識を持っていました。
 私たちも、イエス・キリストを信じているから救われている、と心のどこかで安心しきって、イエス様の御言葉が本当に自分の生き方になっているかをいつも真剣に吟味することを怠らないように、ここで促されているのです。
 
 14節を読みましょう。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とあります。
 私たちは、自分の信仰を自分たちの内だけに、この教会の中だけにとどめておくことはできないのです。山の上にある町のように、信仰は隠しておけないものです。
 先々週の礼拝では、第一礼拝と第二礼拝でも、ずっと玄関の扉が開いていました。
 実は、第一礼拝の始まる前に、少し風を通そうかと思って、私が開けたままにしておいたのですが、それがそのまま第二礼拝の終わりまで、開いたままでした。
 講壇から宣教をしながら、玄関が開いた様子が見えましたが、外を歩く人が、少しこちらを見て、中で何が行われているのかが外から見えるのもいいな、と思いました。
 いつも物理的に扉を開けているかどうかは別として、私たちの教会の扉が常に外に向けて開かれているかどうかは大変重要です。
 
 別府国際教会は、いつも扉を外に対して開いています。色々な背景や文化を持つ人たちが集まっています。私たちは私たちの多様性を喜びます。私たちは、これからも私たちの教会の扉を外に向けて開けていたいと思います。
そしてクリスチャン同士も、お互いの心の扉を外に向けて開けていたいと思います。他の兄弟姉妹同士との交わりを大事にし、お互いを認め合い、教え合って、励まし合うことを、これからも是非大切にしていきましょう。
 私たちの教会の塔の部分にはステンドグラスと十字架の形の窓があり、夜になると照明で光っています。とてもきれいです。
私たちがイエス様の教えに従って生き、イエス様から愛されているという平安で日々を生きるとき、そんな私たちの様子はきっと、夜に輝く十字架のように見えるのだと思います。
 自分にそんな光なんてあるだろうか、と思われるでしょうか。
あるのです。なぜならその光は、それは私たち自身の中から輝く光ではなく、イエス様からいただく光だからです。
 2コリント4:6(2 Corinthians 4:6)
「闇から光が輝き出よ。と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」
神が、神の栄光を悟る光を私たちの内に与えてくださいました。
神の光が私たちの中に宿っています。この光によって私たちは神を知り、この光によってどうやって日々生きるのか、どの道へ進むのかを示されるのです。
 
そして今日の箇所の最後のマタイ516節です。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。
私たちの立派な行い(good deeds)を見て、それを見た人々が私たちをあがめるのではなく、天の父をあがめるのです。
神の栄光を表すこと、これはわたしたちの人生の目的です。
私たちが持っている光を私たち自身のために輝かすのではなく、神のために輝かすのです。
 さて、ここで“立派な行い”とはどういうことでしょうか。道徳的に立派な行いということでしょうか?
 私はこの“立派な行い”(good deeds)とは、人が賞賛するような素晴らしい行動のその外見的なことよりも、キリスト者として、イエス・キリストを信じて、イエス様の御言葉に従って幸せに生きる、という人間の内面のことではないかと思います。
 水曜日の祈り会では、今ヨハネ福音書を最初から学んでいます。どうぞ皆さん、水曜日の聖書の学びと祈り会にもお時間がある時に、いらしてください。ともに聖書を学び、お互いの祈りの課題を分かち合うことは私たちの信仰の絆を強くします。
 ヨハネ福音書の最初から学んでいると、まずバプテスマのヨハネ(John the Baptist)の存在の大きさに気づかされます。イエス様はヨハネからバプテスマを受けたのです。元々地上のイエス様は、ヨハネから色々と教えを受けたのではないかと思います。
それでもバプテスマのヨハネの言葉から一貫して分かるのは、彼がいかに栄光を自分ではなく、イエス・キリストに帰そうとしているかということです。
ヨハネによる福音書330節では「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。
 私たちの中で、イエス・キリストこそが栄えて、“わたし”(self)は衰える。そうすると、“私が、私が”という自己中心的な思いから私たちは自由になれるのです。
 神と他人に喜んで仕えることができるようになるのです。
神の栄光を喜ぶことこそが、私たちが最も平和に、人間らしく、生きる道である、と聖書は伝えています。
 
 さて、今日の言葉はすべて“あなたがた”に向けられて語られています。この“あなたがた”とは今日この言葉を聞く“あなたがた”、今ここに集う私たちです。すなわち私たち教会です。
 別府国際バプテスト教会が地の塩であり、世の光なのです。
 イエス・キリストを頭とするこの教会に連なり、イエス様に価値あるものと認められていることをますます知っていきましょう。
 私たちの教会は、地の塩、世の光として、この世に大きな影響を及ぼすことができるのです。世界を変えることができます。大げさだと思われますか?決して大げさではありません。
私たちが神を信じ、イエス・キリストとの親密な関係の中に自分を置いて、地の塩、世の光としての責任を喜びを以て果たしていくとき、世の中は変わっていくのです。
例えば、私たちの働きによって、新たにイエス・キリストを信じる人が一人でも起こされるのならば、それだけでも世界は大きく変わったことになるのです。
 ですから私たちは自信と喜びを持ってよいのです。
今週も、イエス・キリストが私たちを「地の塩、世の光」だと認めてくれているのだと自信を持って、希望の光を携えて、それぞれの場へと遣わされて行きましょう。
そして私たちの日々の行いが、主がますますあがめられるために用いられますように、祈りつつ歩んでまいりましょう。(酒井朋宏)
 

2017年5月30日火曜日


2017528日 宣教



創世記1章1~5

「闇に輝く神の光」

 

初めに神は天地を“そうぞう”された。

この文章をそのまま、例えば小学校低学年ぐらいのこどもに語ったとしたら、その子はその言葉からどのような状況を思い浮かべるでしょうか。

 “そうぞう”(SouZou)

もしもこどもであれば、または大人であっても聖書物語に馴染みのない人であれば、“創造”をもう一つ別の意味の日本語の“そうぞう”に理解する可能性はないでしょうか。神は天地を “そうぞう(想像:imagine)”された。

実はこれは私が考えたことではなく、ジョナサン・マゴネットというユダヤ教のラビ(rabbi)から聞いた話です。マゴネット先生は西南学院大学の神学部の客員教授として、毎年来日され、神学部の学生たちに旧約聖書についての講義や講演をしてくださっています。ちなみに、このマゴネット先生は「キング・ダビデ」という映画でリチャード・ギアと一緒に映画にも出ているそうです。私はまだその映画を見ていませんが、リチャード・ギアが演じるダビデの結婚式の司式役で少しだけ出ているそうです。そしてその映画で、聖書の知識に関するアドバイザー役も務めたと言っていました。マゴネット先生はイギリスのユダヤ人家庭に生まれ、ご自身のことを“自分はイギリス人”だと認識しておられますが、20歳ごろからヘブライ語を学び直し、正式にユダヤ教のラビの資格を取り、ロンドンにあるレオ・ベック大学Leo Baeck Collegeというユダヤ教の神学校の学長も務められました。先生は日本語も学ばれており、“そうぞう”という日本語が、“創造”と“想像”と両方の意味があることを知り、創世記の冒頭部分を「神は天地を“想像”された」と読めば、それはまた別の面白い意味を持つ、とおっしゃっておられました。

 確かにそれは面白い“想像”ではありますが、しかし、神はこの世界をただ“想像”されたのではありません。イエス・キリストの神は、この世界をお造りになりました。神は世界を“創造”されたのです。この「創造する」を意味するヘブライ語の動詞“バーラー”(ba-la)は、神にしか使われない動詞です。人が何かを作ったりするときには使われません。このことからも、聖書は、世界の創造は神にしかできない業である、と伝えているのです。私たち人間は、すでにある物を利用して何かを作ることはできます。

 しかし、何もない状態から何かを生み出し、それらに生命を与えて生かすことは神にしかできないことです。 この世界を無から創造することは神にしかできない、世界は神によって造られた。そのような信仰が創世記11節、聖書の冒頭の言葉には込められています。

 
そして、「初めに神は天地を創造された」というこの言葉は、私たちに、“あなたは何を信じて生きるのか?”と、人としての生き方の根本を問う言葉でもあると思います。それは、この世界は神によって造られたのであり、私たち生きる者はその生きる命の根拠を神に拠っていることを信じて、それを受け入れて生きるのかどうか、という呼びかけです。
世界の始まりがどうであったか、そういうことは一切考えないという生き方もあります。神様なんて信じない、もしくはいくら考えても確かには分からないのだから、分からないことはそもそも考えないという生き方もあるでしょう。または、この世は所詮ただの夢(想像?)のようなもの、少しでも楽しく生きていけばそれでいいんじゃないか、という生き方。そこまで刹那的ではなくても、世界の始まりとか、人生の目的とかそういうことは真剣には考えないという生き方です。そのような生き方ではなく、この世界と私たちの命をお造りになった創造主を認めて、そしてその創造主は何らかの目的をもってこの世界とそしてこの私をも造られたはず、そう信じて生きるかどうかを決断するように迫る言葉が創世記の最初の言葉です。


 もう最初から結論ですが、聖書は“あなたの造り主を覚えなさい”、この世界と私たちの命は神がおつくりになった、その創造主を知って生きていくようにと、よびかけます。

 コヘレトの言葉の121節にこうあります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」

創世記一章はそれにしても不思議な物語です。クリスチャンでない人には、クリスチャンがこんな非科学的なことを信じていることが、とても不思議に思えるかもしれません。見てもいないのになぜこんなことが分かるのか?そうです、誰もこの世界の始まりの様子を見た人はいないのです。この創世記を書いた著者も、神がこのように世界を造った様子を傍にいて見ていたわけではありません。しかし、創世記を書いた著者は、(それはおそらく一人ではありません。創世記は、長い年月をかけて、一人ではなく多くの信仰者達によって伝えられ、徐々に完成された物語です)彼らが与えられた信仰の目を通して(見た)、理解した世界の創造を記したのです。目には見えなくても、信仰者にとって確実なことは、この世界は神によって造られた、ということです。私たちクリスチャンがすべきことは、たとえこの創造の物語が、非科学的であり証拠を示して確認することが難しいとしても、“世界は神によって造られた”という信仰に生かされることが、そしてその神とはどのようなお方であるのかを知って生きることこそが、人を真に人らしく生かすのだということを、自らの生き方で表すことです。

 

 2節に「地は混沌(formless and empty)であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた」と書かれています。地は混沌である、むなしい(formless and empty)。私たちの周りの世界が、また私自身の心がこのように形がなく不安定で、目的もなくむなしい、そのように思える時がないでしょうか。これは神のいない状態です。または私たちが神を受け入れない場合、世界がどのように感じられるのかを表している言葉です。土台がないので不安定です。どこに立っているのかの確信がありません。すべてに目的も何もないのですから、空虚です。イエス・キリストを知らずに生きていたころの私は、自分を支える土台が何であるかがはっきりとしない、不安定な生き方をしていたと思います。いや、不安定であることにさえ気づいていなかったかもしれません。


 意識的に、または無意識的に、何かを自分の拠り所にしようとしていたと思います。それは自分の持っている能力、経験、自分で建てた将来への計画や夢、お金?または自分自身?そういったものだったと思います。聖書の中で、キリストの故にそれ以前の生き方を完全に変えられ、それまで持っていた人間的には良いと思えるものを、神のすばらしさの前に完全に放棄した人物がいます。


それはパウロです。



フィリピ356

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」ユダヤ教徒として、生まれも育ちも知識も教養も、熱心さにおいても非のうちどころがなかったパウロ。今風に言えば完全な「勝ち組」だったはずのパウロも、つづく7節でこう書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」。パウロは、どれほど熱心に律法を学び、それを守っても、それらによっては本当の平安を得ることができないと思っていたのでしょう。自分にとって確固とした土台となるようなものを感じられなかったのだと思います。しかし、彼は復活の主イエス・キリストと出会い、最後はおそらくローマで殉教しただろうと言われますが、イエス・キリストのゆえに、彼は、困難は多くとも、確実でそして幸福な人生を生きました。神のない状態、土台がなく目的のない状態の中に、神の光が差し込みます。3節「神は言われた “光あれ”。こうして光があった」神の言葉によって闇の中に光が起こされました。「深淵」(deep)という不気味な状態も、神の造られた光に照らされてはっきりとその姿(正体)を現します。闇の中に光を起こされた神の言葉は、私たちの心の中の闇にも大いなる光をともされます。闇の中で先の見えないような状態であっても、神の言葉によってその中に光が差し込むのです。

この創世記が書かれたのは、バビロン捕囚の時代であったと言われます。イスラエルの民が強国バビロンに捕囚として捕らえられていた時代です。故郷から遠く離れた異国での捕囚生活のなか、ユダヤ人たちは厳しく希望のない生活をしていました。しかし彼らは、そのような苦しい境遇の中にも、神の“光あれ”という声を聞いたのです。信仰の耳によってその声を聞いたのです。闇の中に神が一声を発してくださいました。神の慈愛に満ちた力強いこの一言を、今の私たちはどのように聞くことができるでしょうか。


今は、神の言葉、そして神の光はイエス・キリストを通して私たちに与えられています。私たちの心の中の闇も、または私たちの周りの闇と思えるような状況も、神の言葉であり光であるイエス・キリストを私たちが受け入れていれば、それがどんなに深い闇であっても私たちを支配すること決してない。聖書はそう伝えています。


新約聖書のヨハネによる福音書は「初めに言があった。」で始まります。この「初めに言があった」と、創世記の神の「光あれ」という言葉は、同じ一つの真実を指し示しています。神であるイエス・キリストは世の初めから存在しており、イエス・キリストの言葉によりこの世界は創造されて、始まったという真実です。

 創世記145

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である

神の言葉によってできた光に照らされたその日から、私たちの本当の命の日は始まる。それが「第一の日」という意味です。今日は日曜日です。一週間の最初の日です。先週一週間それぞれの重荷を背負って、重い気持ちで今の礼拝の時を迎えておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私たちは神を礼拝することによって、神の言葉を頂いて、神が見て“良し”と言われた光の中に生きていく思いを新たにさせられます。神が“良し”とされた光が私たちに注がれている。光とは、即ち、み言葉です。

「あなたの御言葉は私の道の光」と詩編の著者は述べています。(詩編119105

 聖書の御言葉が闇を照らし、そして私たちの進む道を照らしだすのです。 
今日の最後の5節には「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とあります。

ユダヤの時間では、一日は日没から始まります。例えばクリスマス・イブというのは、クリスマスのイブニング(晩)という意味です。1224日の日没の時点で、すでに1225日が始まっていると考えるからです。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神がこのように一日の秩序を定められました。夕方という時間をみなさんはお好きですか?皆さんは一日のうち、どの時間が一番お好きですか。季節によっても違うかもしれませんが、一日の業を終えて、ほっとする時間。家に帰る時間。夜にもまだ仕事はあるかもしれませんが、昼と夜の間の時間は、つかの間の休息の時間ではないでしょうか。そして夜に人は休みます。夜は私たちが休むときであり眠る時です。そのような生活時間の秩序を神が定めてくださったのです。

 創世記は神の創造の業が6日間で完成されたと伝えているでしょうか?

 違います。

創世記2章の初めに「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」と書かれます。神が7日目に休まれたことを含めて「天地万物は完成」されたのです。私たち人間も、ただ活動的であるだけではなく、働きを止めて休むこと、憩う(いこう)ことが必要であり、それも生きる目的の一部であるのです。皆さん、一週間の生活の中で、ほんとうに忙しく自分の時間の無い方、余裕の無い方もいらっしゃると思います。それでも、私たちの生きる時間も主がお造りになって、私たちはいつも主の許で休むことができるのだということを、しっかりと覚えたいと思います。

私たちは日曜日に礼拝を捧げ、この礼拝から私たちは新しい一週間を始めます。この礼拝から、それぞれの生活の場へと遣わされていきます。そして一週間の生活を終え、来週また教会へ神を礼拝するために戻ってきます。それはなんの意味もないただの繰り返しではありません。見た目には同じことの繰り返しで変化のないような生活に見えたとしても、神の言葉に生かされ、礼拝を中心に生きる生活は、土台のしっかりとした意味のある生き方となります。

最後に創世記131節をお読みします。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」

神はご自分のお造りになったものをすべて “極めて良し”と見られました。その世界の中に私たちは生きています。この世界を作られた神を認めて、神が造られた秩序の中に、神様の意志と慈しみを覚えながら、今週の日々もまた一日一日を歩んでまいりましょう。混沌とした世界に見えても、先の見えない不安に駆られるとしても、この世界を創造され、闇の中に光を起こされた、神の絶大な力と深い愛に委ねて、生きていきたいと思います。(酒井朋宏)