2017年12月26日火曜日


20171224日宣教 
マタイによる福音書118節~25
「神われらと共にいます」
酒井 朋宏
 
みなさん、クリスマスおめでとうございます。
イエス・キリストが、この世界にお生まれになったことを記念するクリスマスを迎えました。
天の父なる神が私たちに、独り子イエス・キリストを贈って下さったことを、私たちが共に喜び、心からの感謝をささげるクリスマス礼拝を、このように皆さんとご一緒に持てますことを本当に嬉しく思います。
そして今晩のキャンドル・サービスにも、多くの方が集ってくださり、共にイエス様のお誕生、救い主のご降誕をお祝いしたいと願っています。
 
「クリスマスの鐘」(Why the chimes rang)というクリスマスの劇が、先ほど演じられました。一番素晴らしい贈り物が捧げられたときに鳴ると言われている教会の鐘を、一体誰がならすのか?というお話でした。
自分こそが鐘を鳴らすのだ!と、お金持ちや王様というキャラクターが劇の中に登場しました。そして彼らは、はりきって高価な宝石や宝物、王様の王冠などを捧げました。
しかし、そのような人間の目から見れば高価な贈り物が捧げられても、教会のその鐘は鳴りませんでした。結局、ひとりの男の子(マルコ)がそっと銀貨を捧げて祈った時に、その鐘はなったのでした。
鐘は、その銀貨にたいして鳴ったというより、兄ペトロと弟マルコの、(倒れていた女の人を助けようとする)優しい心にたいして、そして(真心から持っているものを謙虚な気持ちで神様に捧げる)という、二人の心に対してその鐘は鳴ったのでした。
 
わたしは教会の鐘を鳴らそうとして自信満々な裕福な人たちの姿に、自分自身の姿が重なるような気がいたしました。なぜでしょうか。それは、神様、一生懸命やっている私に応えて下さい!そんな思いを私自身が持っているのではないか?と思わされたからです。
そしていつしか、神様のためと思って自分がしていることが、神様のためというよりも、知らず知らずに、実は自分の周りにいる人の目を気にして、人から評価を得ることを目的として、しているのではないか?そのようにも感じたのです。
劇を通して、わたしはすべきことをしているだけです。これしか捧げるものが私にはありませんそのような謙虚な心を神は喜ばれる、と改めて教えられました。
 
クリスマスに私たちが忘れてはならないこと、それは、最高の贈り物を捧げられたお方は、神ご自身であったということです。あの劇に神様が出てきたら、きっと最初に鐘を鳴らすのは神様ご自身であったはずです。
なぜなら、神ご自身が最高の贈り物を私たち人間にくださったからです。その贈り物とはイエス・キリストです。イエス様は神様から私たち人間への最高の贈り物です!
神様が救い主イエス・キリストを私たちにプレゼントしてくださいました。その大きな恵みへの感謝を、私たちはますます強く持って行きたいと思います。
 
クリスマス礼拝の今日、マタイによる福音書第118節から25節までの箇所から、神様から私たちへの最高の贈り物であるイエス様誕生の出来事について、聖書に聞いていきましょう。
 
118
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」
 マリアとヨセフは婚約をしていました。当時のユダヤでは、結婚は両親同士、または結婚仲介を専門にしている人たちによって、幼いころから将来の結婚相手が決められるのが普通でした。
 そして、二人が一定の年齢になってから、本当に結婚する意志があるかどうかの確認がなされて、その意志が確認されると、二人は正式な婚約という状態に入りました。その婚約期間は約1年間続いたそうです。
この婚約期間は、ほとんど正式な結婚と同じであると見なされていました。ただ、二人はまだ一緒には暮らさないのです。ヨセフとマリアは、そのような婚約期間中でした。
 
この時、マリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになりました。(18節)マリアは聖霊によって身ごもった-これは、イエス・キリストの誕生を、ただ奇跡的で劇的な出来事として描こうとしているだけではありません。
聖霊によって身ごもったそれはつまり、救い主の誕生は、人間の意志や人間の決断、人間の努力に基づいて起きた出来事ではないということです。
人間によってではなく、神が人間を救うとご自分で決断してくださったからこそ、イエス・キリストが救い主としてお生まれになったのです。そのことが、マリアがイエスを聖霊によって身ごもったことに表されています。
 
そしてもう一つは、イエス・キリストは人として生まれたけれども、イエス・キリストは神であった。しかも世の初めから神であったというクリスチャンの重要な信仰を、聖霊によって身ごもった事実は、伝えているのです。
 
ヨハネによる福音書31節~2
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2:この言は、初めに神と共にあった。
イエス・キリストは最初人間だったけれども、十字架の上で死んで復活した後に神様になったというのではありません。
人の子としてお生まれになる前からイエス・キリストは神としておられたのです。そして人として生まれてから最期に十字架の上で死ぬまで、人間の肉体を取っておられた間もずっとイエス・キリストは変わらずに神であった、という真実がマリアは聖霊によって身ごもったということに表されています。
 
 いずれにしても、マリアの妊娠はヨセフとマリアにとって大変な出来事でした。正式な結婚の前に判明したマリアの妊娠は、二人にとって大きな試練でした。律法によれば、マリアは姦淫の罪に問われる可能性があったからです。
 ヨセフは必死に考えたと思います。どうすればよいのか。。。
 
 日本語の聖書にはヨセフは 正しい人であったので19節)と書かれています。英語の訳では彼は律法に忠実であったのでと訳されています。当時正しいとは律法を忠実に守ることでした。
 しかし、彼は律法を形だけ守るという正しさではなくて、律法の精神と神の御心にたいして忠実な人でした。律法の精神と神の御心とは、すなわち人への優しさと思いやりでした。
 結婚の約束をしていながら妊娠したということが公になれば、マリアは石打ちの刑になってしまいます。
 
旧約聖書の申命記241節には
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と記されています。
 
 ヨセフには、マリアのしたことを公にして、マリアを石打の刑にするという選択肢もありました。しかし、離縁状を書いて渡せば、マリアに起こったことが明るみにはでないので、少なくともマリアの命を助けることはできる道があったのです。
 この難しい事態を乗り切ろうとして、もうこれしかないとヨセフが決断した時に、主の天使が夢でヨセフに現れました。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)
 
主の天使は「恐れずに、妻マリアを迎え入れなさい」と言ったのです。「迎え入れる」とは婚約状態から正式な結婚に入るということです。
 恐れずに。―主の天使のこの言葉によれば、ヨセフの決断には彼の恐れがあったことが分かります。ヨセフは何を恐れていたのでしょうか。
まず、聖霊によって身ごもった。そんなことを誰が信じられるでしょうか。おそらくヨセフ自身が最初は信じられなかったでしょう。私たちが人を信じるにためは、決断と勇気を要します。もし信じて裏切られたらどうしよう。。。そういう心配もあるでしょう。
 
しかし彼は主の天使からマリアのお腹の中の子は聖霊により宿ったのだと聞きました。それはその子は神に愛されている大切な存在であり、あなたはその子の父親になる大切な使命があるのだという意味でした。
人間的には不安で恐ろしい状況かもしれません。しかしあなたはマリアと共に、そして生まれてくる新しい命とこれから一緒に生きるのだと言うメッセージを、ヨセフは主の天使から受け取ったのです。
 
 もう一つヨセフが恐れたであろうことは、マリアとお腹の中の子(イエス様)を、つまり自分にとっての他者を自分の中に迎え入れるということです。つまり、人と共に生きることを恐れたのです。
一人で生きている状態から、他者を迎え入れて共に生きるという変化に対する恐れです。自分とは考え方も性格も違う他人と一緒に生きていくことは大変です。
結婚してマリアと、そしてお腹の中の子と共に生きるということは、生き方の大きな転換を迫られます。ヨセフは自分を明け渡して、神の御声に従って他者と共に生きるという決断をするように、主の天使の声によって迫られたのです。
 
 主の天使は引き続き言います。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」
イエスとはヘブライ語のヨシュアです。その意味は神は救い神は救うという意味です。神はどのように私たちを救われるのでしょうか?
続いて23節をお読みします。
 
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」
「神は我々と共におられる」―私たちの神、主イエス・キリストの神は「私たちと共におられる」という方法で私たちを救う、と言われるのです。
 
神様は、私たちが生きる上で直面する難しいことや苦しいことを、私たちが目に見えるような形でいつも解決してくれる、困難を取り除いてくれる、とは約束していません。いつも私たちが望むようなかたちで私たちを救い出してくれるとも約束していません。
ただ神様は私たちと共にいると約束してくれています。そのような仕方で神は私たちに救いをくださるのです。共にいることによってです。
 
「共にいる」というのは「いつも」共にいる、ということです。マタイ福音書の最後を見てみましょう。
マタイ2820節「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
インマヌエルの神はいつも私たちと共にいてくださるお方です。気がむいたときだけ助けたり、時々顔を出すような神様ではなくて、いつも私たちと共にいて下さる神様です。
 
詩篇234節には
「たといわたしは死の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」と書かれています。
どんな境遇にあっても、神が私たちと共におられるならば、私たちは恐れないのです。人生で起きる色々なことに、そして人(他者)を受け入れて共に生きることも、主が共におられるから、私たちは恐れる必要はなく、安心してよいのです。
 
ヨセフは、マリアとお腹の中の新しい命(聖霊によって宿った)と共に生きていくことへの恐れを感じたのではないか、と私は言いました。神にとっても、独り子イエス・キリストを人としてこの世に生まれさせ、人間にその命を委ねるということは、恐れではなくても、それは大変な決断であったはずです。
 神は私たち人間を徹底的に愛されたので、独り子イエス・キリストを人間に与えてくださったのです。神が人として生まれ、そして人と共に生きるという決断を、神ご自身がしてくださったのです。
 
共に生きるとは、他人に心からの関心を持って、その人の痛みや喜びを共有する、その人のために時間を使う、ということです。
誰かと共にいることは実際大変です。私たちは一人でいたほうが楽かもしれない。しかし、神は私たちに他者を受け入れて他者と共に生きろと言われるのです。
 神ご自身が私たちと共にいるということにより、私たちの恐れを取り除き、私たち人間に救いを与えてくださいました。その救いを受けた私たちも、自分にできるだけの方法で、出会わされる他者を受け入れて共に生きるという決断を、このクリスマスにしていきましょう。
 
 私たちにとって他者とは誰でしょうか。それが具体的に誰であるかは人によって違います。近い家族や、結婚相手という関係ではなくても、様々な形で関わりを持つようになる他者、だれかと私たちは共に生きるのです。特に、同じ教会の兄弟姉妹はそうです。
私にとって共に生きるようにこの人を受け入れるようにと示された人と、共に生きるという決断を、クリスマスのこの日、私たちは新たにしたいと思います。
 そして、私たちと共にいる神、イエス・キリストの誕生を心から喜び、感謝を致しましょう。
 
お祈りします。
 

2017年11月26日日曜日

2017年11月26日(日)礼拝宣教
              「主を待ち望む」
               詩編130篇1~8節        酒井朋宏


本日は詩篇130篇の御言葉に共に聴いて参ります。詩編130篇には「都に上る歌」という見出しがついています。詩編120篇から134篇まで、この「都に上る歌」という見出しがついています。
「都に上る歌」とは、過越祭などのイスラエルの重要なお祭りの時に、イスラエルの人々がエルサレムへ上りながら歌った歌です。
そしてまたバビロン捕囚でバビロンに捕らわれていたイスラエルの人々が、解放されて再び自分たちの国の都エルサレムへ戻る時に歌われた歌であるとも言われています。
そのような嬉しい歌のはずですが、130篇の1節~2節を読むと、この詩を歌った詩人が大変苦しい状況に置かれていたことが分かります。
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」
“深い淵の底”とは、一体どれほどの苦しみであり悩みなのでしょうか。“底”とは、もうこれ以上の苦しみはないと思えるような絶望のどん底です。
 この詩人が具体的にどんな状況に苦しんでいたのかは分かりません。3節と4節では“罪”と“赦し”について語られていますので、この詩人は自分の犯した罪のために苦しんでいた、という解釈もあります。
しかし、たとえ私たちに、この時詩人が苦しんでいた状況が知らされたとしても、悩みや苦しみは、それを経験して感じている本人にしか分からないものです。
私たちは、悲しむ人、苦しむ人に同情したり、共感したり、また慰めてあげたいという思いを持ちます。しかし、苦しみは苦しんでいる本人にしか分からないものです。 
そして、人は、痛み、悩みや苦しみそのものよりも、“自分の痛み苦しみを完全には分かってくれる人が他にいない、自分の苦しみに寄り添ってくれる人が傍にいない”時に、最も苦しみを感じるのではないでしょうか。
この詩人は、“主よ、私はあなたを呼びます。私の声を聞いてください”と主に呼びかけています。ここには、“主は私たちの悩み苦しみを分かってくださるお方であり、そのような主がおられる”という信頼と希望が表されています。
他人には完全にわからない私たちの苦しみも、主は全てを知っていてくださる、という信仰であり、その信仰からくる平安です。
“絶望の底”、私たちは出来ればそんな状況に陥りたくはありません。しかしこの詩篇の御言葉から私たちは、たとえ深い淵の底のような状況にあっても、私たちには祈ることの出来るお方(神)がはっきりと知らされている、と教えられるのです。
聖書を通して私たちに知らされたイエス・キリストの神に、私たちは呼びかけ、祈ることができる、これは大きな希望です。
嘆くときにも祈ることができ、そのような私たちの祈りを聞いてくださるのは十字架と復活の主イエス・キリストであると、知らされていることは、なんと幸いなことでしょうか。
 イエス・キリストは、私たちが絶望の底にいるときにも私たちの祈りを聞いてくださるお方である、と私たちはなぜ確信できるのでしょうか。
それは、イエス・キリストご自身が、絶望の底にまで下られたお方であるからです。イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを叫ばれました。(マルコ15章34節)
神の子であるイエス・キリストが、天の父なる神からの断絶を経験されたのです。イエス様は私たち人間が感じるどんな絶望よりも、更に深い絶望をご自身で経験され、深い底の底にまで、下られたお方なのです。
ですから、どれほど深い底に私たちが落ち込んだとしても、主イエスは私たちと共におられるし、私たちの苦しみを知っていてくださるのです。
詩編139篇8節もこう言っています。
 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府(よみ)に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。
私たちの主は天におられるお方です。しかし、主は同時に“陰府(よみ)”にもおられるのです。“陰府(よみ)”(depth)とは、ある英語の聖書では“地獄”(hell)と訳されています。
主は天にもおられるし、地獄にもおられる。つまり、どんなところであっても、神の御手の力が及ばない領域は存在しない、ということです。
“天にも昇るような心地”という言い方があります。私たちがとても嬉しい時、幸せだと感じる時です。また全てが順調でうまくいっていると思える時。そのような時は、人が逆に自信を持ち過ぎて傲慢になって、神の恵みを忘れそうになるときかもしれません。
しかしそのようなときにも、神はもちろん私たちと共におられるのです。神は私たちが高ぶることがないように戒めてくださるお方です。
そして逆に、私たち人間が“もう神などいない”と思ってしまうような絶望の状況であっても、聖書は“神は必ずそこにもおられる”と言っているのです。どんな時にも、どこにでも神はおられる、この信仰に私たちは立ち続けたいと思います。
130篇2節の言葉をもう一度見てみましょう。
“主よ、この声を聞きとってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください”。
 “この声を聞き取ってください”という文は、ヘブライ語聖書のニュアンスに忠実に訳せば、「声を聞いてください」というよりも「私の声“の中に(で)”聞いてください」となります。
それはただ聞こえる私の言葉だけではなく、私の心の中にまで入り込んで、私が自分の言葉では表現出来ていない呻(うめ)きをも聞き取ってください、と祈っているのです。
私たちの主は、私たちの“か細い声”を聞きとってくださるお方であり、私たちの声の中の声までも聴いてくださる方です。
ですから私たちは嘆きの時に、言葉にならないような祈りであっても、どう祈ってよいか分からないような時にも、主にむかって祈ってよいのです。
ローマの信徒への手紙8章26~27節
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
神は私たちの心の叫びを聞いてくださっています。私たちは嘆きの中にも“私の主”と呼びかけて祈ることのできるお方、真(まこと)の神を知らされています。ここに信仰による幸いと慰めがあります。
 
 次に3節で詩人は“主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう”と告白しています。
この詩人は深い淵の底、絶望のような状況にあってもなお神に祈りました。そして詩人は神の前にはどんな罪も隠すことができないことを知っていました。
神は私たちの全ての罪を見抜いておられる方であるから、神の前では何も隠し通す必要がない。そのように神との正直な関係に身を置いているのがこの詩人なのです。
私たちは人に対しては、自分の罪の部分、人に対して知られたくない部分を見せないで隠しておくことが可能です。誰にでもそのような部分があると思います。しかし、私たちは主に対しては、自分の罪も何も隠してはおけないのです。
 「あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ誰が耐ええましょう」
あらゆる罪を見逃されないのが主であるなら、私もその裁きを逃れ得ない、無罪放免とはならない、と詩人は告白しています。
ここで、“何も隠せないとは、神様とは何と恐ろしい方か!”と皆さん思われますか?
いえ、それは恐ろしいことではないのです。むしろ私たちが主の前では本当に自由になれるということです。なぜならそれは私たちが主の前には何も隠さずに本当の自分のままでいられるということだからです。
 キリスト者となってからも、“自分が罪人だ”という事はなかなか受け入れがたいことではないかと私は思います。
それは私たちがどうしても私たちの目に見える罪、いわゆる一般の“悪い事”のレベルで罪を考え、その罪を他人のものと比較するからです。
“あのような罪に比べれば自分の罪は大したことはない。。。。”などと、私たちは人との比較によって自分を判断することが多いと思います。
しかし、聖書を読み、御言葉を通してイエス・キリストに出会わされるということは、イエス様との出会いによって私たちの深い罪に真剣に向き合わされることです。そして、その私たちの罪はイエス様の十字架によって赦されていることを知るのです。
 自分が罪人だと認めることは、難しく辛いことだと私は思います。本当の自分を知り、本当の自分を認めて、受け入れるということも、難しく大変なことではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストを通して罪の部分も含めた本当の自分を知るとき、私たちは、そんな私とも、どのような時にも共にいてくださる神がおられるという恵みに、益々感謝ができるようになるのです。
6節をお読みます。
「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして」
“見張り”とは、当時壁で囲まれた町を夜に守る兵士、または商人の一団(隊商)の中で、仲間を敵や獣の襲来から守るため、夜寝ないで見張りをしていた人のことです。
いつやってくるかもしれない敵、危険な獣の襲来の可能性に大変な緊張を強いられる大変きつい仕事でした。
 私はこの“見張り”から、イエス様誕生の知らせを最初に知らされた羊飼いたちの姿を思い浮かべました。
ルカによる福音書2章で、天使から救い主イエス様誕生の知らせを最初に聞いたのは、夜通し羊の群れを守っていた羊飼いたちでした(ルカ2章8節)。羊を守るために、夜も寝ないで群れを守っていた“見張り”であった羊飼いたちです。
羊を奪おうとする強盗や野獣が襲ってくるかもしれないという緊張の夜の中、朝を待ち望んでいた彼らに、救い主がお生まれになった、という知らせが、他の誰よりも先にもたらされたのです。
 私たちも、日々の生活での疲れや緊張の中にも、見張りが朝を待つように“必ず朝は来る”という希望をイエス様から頂いて、主を待ち望みたいと思います。
そしてこの詩編130篇は
「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」という言葉で終わります。
ここで、“私が主に祈ることができる恵み”、そして“私の罪が許されたという恵み”が、この詩人個人のものから、彼が属する共同体であるイスラエル全体に対しての“主を共に待ち望もう”という呼びかけへと変わっていきます。
私たちは他者と一緒に、主に希望を置き、主を待ち望むのだとの呼びかけです。主に祈ることができる、主は私の罪を赦してくださっている、この恵みが私だけのものとならず、他の人へも与えられるようにと、私たちは祈る者となるのです。
私が信仰を持つ以前に感じていたのは、“信仰とは個人的なものであるべき”ということでした。ですからキリスト者というのは非常におせっかいな人達であって、人を煩わす人達に見えました。
“あなたの信仰は尊重するから、私のことは放っておいてほしい”、私はそのように感じていました。
しかし今は、“私たちキリスト者は、信仰による喜びと希望を他者と共有したいと望む者である”と思っています。
人と一緒にということは時に困難かもしれません。自分の心の中だけのことにしておいたほうが楽かもしれませんが、実はそうではないのです。私たちが主に置く望みは、ただ個人のものだけしておくことはできないのです。
自分が罪赦されたという感謝と喜びが私たちにあるのならば、すべての罪から私たちを贖ってくださる方がおられるという福音を他の人たちに伝えていく者に私たちはならざるを得ないのです。
  「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)と言われたイエス・キリストが私たちを救うためにお生まれになりました。ルカによる福音書2章でシメオンは、“イスラエルの慰められるのを待ち望んで”いました。
そのシメオンは神殿で幼子のイエス様を見て「わたしはこの目であなたの救いを見た。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っています。(ルカ2章30-32節)
シメオンの望みはイスラエルの民全体の望みでした。そしてその望みが実現しました。
個人の嘆きと祈り、そして救いの出来事が、私たち全員の出来事として共有される、そのような出来事がまず私たちの教会で起こることを願いたいと思います。そのために教会はあるのです。
 そして私に知らされたこの神の恵み、わたしたちの教会に知らされた神の恵みは、決して私たちだけのものとはしておけません。主の救いを必要とする人達が、一人でも多く福音を知ることができるように、教会に集ってくださいますようにと祈りましょう。
 来週から、イエス・キリストを待ち望むアドベンド(待降節)が始まります。神様が私たちにして下さったこと、そして今もしてくださっている恵みの一つひとつを数えて、イエス様が私たちの世界に来てくださったことを感謝するクリスマスに備えて参りましょう。
お祈りいたします。
 

2017年10月23日月曜日


2017年10月22日(日)
                                                                                                         別府国際バプテスト教会 
                                                        マタイによる福音書11章2~6節
                                                             「福音を告げ知らされる」

今日の箇所はマタイによる福音書11章の2節から6節までです。前の章の10章は、イエス様が12人の弟子を選んで彼らを派遣する場面でした。
福音宣教の働きを、イエス様は弟子たちに委ねて、そのために必要な力も彼らにお与えになって、彼らをそれぞれの場所へ遣わされました。
 今日の箇所の一節前になる11章の1節を読みます。
「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」
12弟子を選んで彼らを派遣した後も、イエス様は変わらずご自身で宣教の働きを続けたことが分かります。
つまり「もう宣教の仕事は弟子たちに任せた。必要な知識も能力も彼らに授けた。だから自分は一休み」ではなくて、弟子を派遣した後も、イエス様ご自身も、依然として福音宣教のために働き続けたのです。
このことから、イエス様は、たとえ私たちの目には見えなくても、今も聖霊として常に私たちを助け、今も生きて働いておられると私たちは信じることができます。
そして私たちは、いつも主から派遣されて日々を生きるという信仰姿勢を失わないようにしたいと思います。この礼拝から、私たちは毎週、新しい週の生活へ遣わされていくのです。
 さて、今日の箇所は新共同訳聖書と英語訳(NIV)には「洗礼者ヨハネとイエス」という小題がついています。バプテスマのヨハネは、当時の普通の人々だけでなく、イエス様にも大きな影響を与えた人物でした。イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けています。
 マタイによる福音書3章に、イエス様がガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来て、バプテスマを受けたことが記されています。その時、ヨハネは(ちなみに、このヨハネは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネとは違う人物です)、
「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3章14節)と言います。イエス様は「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(同15節)と言われます。
私たちの主イエス・キリストは、徹底的にご自分を低くして、ご自身が神であるのに、人からバプテスマを受けるという驚くべきことをなさいました。
 バプテスマは“神から離れて生きていた(罪ある状態)古い自分に死んで、復活の主と共に新しい自分に生まれ変わる。これから神と共に歩む”という決意を表すことです。
神の前に自分の身を低くしてバプテスマを受けることの重要さと、そしてその喜びを、イエス様ご自身が私たちに見せてくださったのです。
 そして今日の箇所では、イエス様にバプテスマを授けたそのヨハネが、囚われの身となって牢の中にいます。今日の箇所よりも後のマタイ14章に書かれていることですが、領主ヘロデが自分の兄弟(フィリポ)の妻(ヘロディア)を自分の妻としました。
それに対してヨハネがはっきりと「それは律法でゆるされていない」と指摘をしたので、ヨハネはヘロデの怒りを買って投獄されてしまったのでした。14章では、バプテスマのヨハネが最後は首を切られて殺されたという、大変痛ましい話が伝えられています。
  11章2節「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。』」。
このヨハネの言葉から、とても力を無くして落ち込んでいるヨハネの姿を私たちは想像することができます。たぶん、座って下を向いて、そして精一杯絞り出すような声で、話したのではないでしょうか。
 “あなたこそが救い主だと信じていますが、今自分はなぜこのような囚われの身にあるのでしょうか?正しいことをしている自分がなぜ?あなたはこの世の不正を正してくださる方ではないのですか?”
などと、ヨハネは考えていたのではないでしょうか。時の権力者も恐れず、はっきりと“悪いことは悪い”と声を上げる勇気を持っていたヨハネでも、これほどに弱くなる時があったのです。
わたしたちも、イエス様を信じてキリスト者となっても、それで全ての事が順調にいくわけではありません。場合によっては、神への信頼が揺らいで“神様、あなたは本当にいらっしゃるのですか?
あなたが本当にいらっしゃるのならば、どうしてこういうことが起こるのですか”と疑問に思うほどに落ち込むことが、私たちにもあると思います。
しかし、イエス様から“およそ女から生まれた者のうち、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった”(マタイ11:11)とまで言われた、このヨハネでさえ、これだけ自信を無くして弱音を吐いたのです。
私たちが、同じように神への信頼が揺らぎそうになることがあっても、当然と言ってよいかもしれません。
しかしヨハネは、そのような境遇の時に、キリストのなさったこと(the deeds of the Messiah)を聞きました。絶望のような状況の中で、イエス・キリストがなさっている業について聞いたのです。ここに暗闇の中にも光が差し込むのです。
それは幸いなことでした。私たちが、牢の中に閉じ込められているような時にも、私たちはキリストの業について聞くことができるのです。ヨハネは囚われていますから、ヨハネの弟子たちが、ヨハネにキリストのなさったことを伝えました。
キリストのなさったことを自分に伝えてくれる弟子たちがいた、これはヨハネにとって大変幸いなことでした。私たちもこのように、牢に囚われているような人たち、福音を必要としている人たちに、神の業を伝える者(メッセンジャー)となる必要があります。
ヨハネの問いかけにイエス様はこう答えます。
4~6節
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである」
 ここで、“見聞きしていること(what you hear and see)”の“聞く”という言葉に注目したいと思います。
 「聞く」と言うと、私は自分の牧師が言っていたことを思い出します。
私は先生にこういう質問をしたことがあります。「牧師にとって一番必要なことは何でしょうか?」と。そしたら先生は少し考えた後、
「そうですね。教会には色々な人が来ます。そしてその人たちが色々な話をしにきます。教会に来る方々の話すことを『聞く』、それが一番重要だと思います。」
人から相談を受けたり、何か対処しなくてはいけないことが教会で起きても、すぐにアドバイスしようとしたり、すぐにそれに何かの対処しようとする前に、まずは相手の言うことをしっかりと聞く。
そして状況をしっかりと見る、という姿勢が大事なのだと、先生の話から私は思わされました。そして何よりも私たちは、まず神の言葉、聖書の御言葉に聞くという姿勢をいつも持っていることが大切です。
そして、
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
という言葉については、どう考えるべきでしょうか。
目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、そして耳の聞こえない人が癒される。そして死者が生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる。これらは全て旧約聖書のイザヤ書に書かれている言葉です。
イザヤ書にそのようなことが書かれている背景には、多くのユダヤ人たちが、自分たちの国を征服したバビロン帝国へ囚われていった“バビロン捕囚”の出来事と、その捕囚からの解放の出来事があります。
“目が見えるようになる”、“歩けるようになる”、“耳が聞こえるようになる”とは、身体的な癒しだけではなく、もっと根本的に、何かに囚われていた状態から解放されて、本当の自由を得るということが意味されています。
イザヤ書61章1節にこう書いてあります。
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために
「(あなたたちが)見聞きしていること」(マタイ11章4節)、それはすなわち、良い知らせ(福音)を知らされた人たちが、自分を縛っていたものから解放され、本当に自由になっているということです。
 イエス様は、“福音を知らされた人たちが真の解放を得ている。それは神の業である。そのことをヨハネに伝えなさい”と言うのです。
 そして「(あなたがたが)見聞きしていること」の“見る”、”聞く“は現在形で書かれていることにも注目したいと思います。
私たちは“今起きていること”を伝えるのです。過去にあったこと、これから起こるであろうことではなく、今実際にわたしたちが見て聞いていることを伝えなさい、とイエス様は言うのです。
 なぜなら、私たちは今という時を生きているからです。過去を振り返って反省し、現在に活かすことも大切です。未来を思い描いて、目標やビジョンに向って生きることも大切です。
しかし私たちは、過去に生きるのでも未来に生きるのでもない。今という時に生きているのです。私たちが伝えるイエス・キリストの福音とはまさに“今ここで起きていること”なのです。なぜなら神は今ここで働いておられるからです。
教会では今、何が起こっているでしょうか。毎週の礼拝で、また私たちの信仰の交わりを通して何が起きているでしょうか。教会で神の言葉が聞かれて、私たちの本当の解放が起きているでしょうか。
教会では神の言葉が聞かれています。教会学校で、礼拝の中での聖書朗読で、讃美歌で、そして宣教を通して神の言葉が聞かれます。私たちは、そのようにして聞いた神の言葉に応答して生きる決意を、“今”新たにされているでしょうか。私たちの魂は、福音によって生き返っているでしょうか。
私は牧師として、聖書の伝えるイエス・キリストの福音がこの教会でいつも告げ知らされるようにと、精一杯祈り、宣教をしたいと願っています。
 教会は、力を失っていた人が、御言葉によって力を受けて、立ち上がることができる場所です。そして私たち信仰の兄弟姉妹同士が、信仰に基づいて、お互いに励ましあって元気づけられる、弱っている時には支え合う場所です。
そして本当にそういうことが起きているのならば、私たちは教会で起きているそのことを、他の人にも伝えるのです。御言葉を聞き、神の業を見るとは、すなわちその恵みを他者にも伝える(すなわち伝道)ことにつながるものなのです。
  
最後に、今日の6節の「わたしにつまずかない人は幸いである」という言葉について考えましょう。この「つまずく」というギリシア語の“スカンダリゾー(skandarizo)”という動詞は“信仰を拒む”、“信仰から離反する”、“罪を犯す”という意味も持つ言葉です。
マタイ13章21節の、“種を蒔く人の譬え”でも、この言葉が使われています。
マタイ13章22節~21節
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいて(skandarizo)しまう人である。
神の言葉を喜んで受け入れるけれども、試練が来たときには信仰から離れてしまう人の譬えです。私たちは、“自分はそうではない”、“自分はけっしてつまずかない”と言うことができるでしょうか。
 イエス様の弟子たちは、主が捕まった時、みんな逃げてしまいました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)と言っていた、イエス様の最初の弟子のペトロもです。
ペトロはイエス様のことを「わたしはあんな人は知らない」と言いました。(これには、イエス様が、自分が期待していたような救世主のイメージとあまりに違ったからという理由もあります)
  “わたしにつまずかない人は幸いである”。今日私たちはこの言葉を、“あなたはつまずく時がある。しかし、それでもわたしはあなたを決して見捨てない。そんなあなたの弱さのために私は十字架にかかった”というメッセージとして聞きたいと思います。
どんな状況にあっても、“神様、あなたは本当いますか?”とさえ、私たちが疑問に思ってしまうような時にも、神は変わらず私たちと共におられ、わたしたちのそんな疑問さえも包み込んでくださっています。
 “絶対あなたから離れることはありません”と思っていても、恐れや不安に負けてしまう私たちです。「わたしにつまずかない人は幸いである」というイエス様の言葉は、
「自分の強さに寄り頼んで生きる必要はない」、「試練が来るとつまずいてしまう、そんな自分の弱さを受け入れて、主なる神に寄り頼みなさい」というメッセージです。
福音による本当の解放が、今実際に私たちの教会で起きているかどうかを、信仰の目で見て、信仰の耳で聞き、そしてまた、そのような本当の解放が福音によって教会にいつも起こされますようにと、私たちは祈り続けていきたいと願います。
お祈りを致します。

2017年10月2日月曜日

==牧師就任按手式==


次週10月8日(日)午後4時より、酒井朋宏牧師「就任按手式」が開かれます。
酒井牧師は既に今年4月より、当教会の牧師に就任しております。この度の就任式は
近隣教会の皆様にもお集りいただいて、共に主の祝福を祈り、分かち合う機会となります。


*無事終了いたしました。大勢の来会者者に恵まれ祝された時となりましたことを感謝いたします。

2017年9月25日月曜日


2017年9月24日
別府国際バプテスト教会
コリントの信徒への手紙一1章10~17節
「キリストによる一致」

 昨日から、教会のファミリーキャンプが開かれています。礼拝の後も、今日の午後3時過ぎまでキャンプのプログラムが続きます。昨晩は何人かのメンバーが教会に泊まりました。このキャンプを通して、私たちの信仰の絆と交わりが、より深められますようにと私は願っています。
 
さて、今年度の私たちの教会のテーマは、「神にあって共に成長する」 "We grow together in God” です。そしてそのテーマの元になる聖書の箇所はコリントの信徒へ手紙一3章7節です。
「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。

 少し前まで、我が家でミニトマトを育てていました。(最初は子どもたちが育てるというので買ってきたのですが、段々私が毎日水をやるようになりました)暑い夏の日に、少しでも水をやるのを忘れると、すぐに葉がしぼんで萎えてしまいました。
そして水をやると、見違えるようにまた力を取り戻して、茎と葉がしっかりと伸びる様子を見ることができました。植物、作物を育てるのに、水をやることは欠かせないと実感いたしました。
 また以前、ある予備校の先生がテレビでこう言っているのを聞いたことがあります。その人は大変有名な先生で、その人の授業を受けると、多くの学生が成績を上げて希望の学校へ進むことができる、と評判の英語教師でした。

「わたしがやっていることは、ただのサポート役です。私の授業を受けて、その学生の成績が上がったのならば、それは80%その学生自身の力であり努力です。私は勉強のコツややり方を教えるだけで、補佐(サポート)役をしたに過ぎないんです。」
 確かに、どんなに優れたコーチや、人をやる気にさせることができる先生でも、最終的に勉強や練習をして、成績を上げたり技術を身に付けたりする努力は本人にしかできないものです。
 つまり、“成長するかどうかはあくまで本人次第”、これが世の中一般の考え方です。これは非常に個人主義的な考え方とも言えると思います。その人がどのような生き方をするか、成長するかどうかは、その人個人の選択である、ということです。
 しかし、聖書はこういうのです。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。
植える者も必要です。水を注ぐ者も必要です。自分自身で成長しようとする本人の努力も必要です。しかし“成長させてくださるのはあくまで神”、キリスト者はいつもこの点をしっかりと覚えておかなくてはならないのです。
このことが分かっていれば、私たちはたとえ何かがうまくいかないとしても、それで自分自身を卑下(ひげ)したり、また逆に何かに成功したからと言って、自信を持ち過ぎて傲慢になってしまうことから、私たちは自由になることができるのです。
そして私たちは1コリント3章のその聖句から「共に成長する」ことが大切だと考えました。クリスチャンの成長は個人的なものではないのです。教会の中で、私だけが成長するとか、一部の人だけが成長するのではなくて、「共に成長する」ことが大切なのです。なぜ“共に”でなくてはならないのか、そのことを今日は考えたいと思います。
そして、もうひとつ、今年度の私たちのテーマである「神にあって共に成長する」は、私たちの教会の2013年から2022年の10年間の主題である「すべての民を主イエスの弟子に」に基づいています。(これが、今回のキャンプの主題でもあります)

「すべての民を主イエスの弟子に」これは、マタイによる福音書28章19~20節のイエス様のいわゆる宣教大命令(Great Commission)の言葉です。
私は今日の聖書箇所を黙想して宣教を準備するあいだに、今年のテーマの「神にあって共に成長する」と、10年間の長期テーマであり今回のキャンプの主題でもある「すべての民を主イエスの弟子に」との間には、密接につながる神の教えがあると改めて示されました。そのことも今日一緒に皆さんと分かち合いたいと思います。
 
 さて、コリント人への第一の手紙の今日の箇所をみますと、明らかに当時のコリント教会の中で問題が起きていたことが分かります。

1章10~11節
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」

 コリント教会では、いわゆる“仲間割れ”が起きていたようです。「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と、教会の人々がグループを作って、それぞれ自分のグループが、または自分のグループの先生のほうが優れている、などと言って争っていたようです。
パウロの言う「皆勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」all of you agree with one another in what you say(10節)とは、どういうことでしょうか。
これは、あらゆることに皆がいつも同じ意見を持ちなさい、ということでしょうか?何かを決めるときも、皆が同じ意見を持って、違う意見や考えが出ないようにしなさい、ということでしょうか?
私たちは、プロテスタント教会の中でもバプテストと言われる教会です。バプテスト教会の特徴は色々ありますが、その一つに民主的教会運営が挙げられます。民主的な教会運営で大切なのは、信徒一人ひとりの意見が平等に聞かれることです。たとえ少数の意見であってもきちんと聞かれることが大切です。
そして大切なことは皆で祈り、話し合って決めることがとても重要だと私たちは考えます。(祈ることが大切です。まず祈ることがなければ、いくら民主的に話し合っても、私たちは教会ではなくなってしまいます)祈りと話し合いのプロセスを通して神の御心を探るのです。

 ですから、何かについて話し合うとき、何かを決めるときに、色々と異なる意見が出ることは悪いことではなく、むしろそれは良いことなのです。そのために合意に達するのに時間がかかっても、私たちは合意形成のプロセスを大切にします。
パウロは同じコリント1の11章19節でこうも言っています。
「あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません」
 “適格者”(英語では which of you have God’s approval)と訳されているギリシア語の“ドキメー”(dokimeh)という言葉には「吟味された者」という意味があります。

ですから、神の御心が何であるのかが吟味されて明らかになるには、時には意見の違いも、仲間争いさえも必要だろう、とパウロは言うのです。ただし、そこには礼儀をわきまえた、お互いに相手を敬う気持ちを持つことが大切であることは言うまでもありません。
しかし、色々な意見がでること自体は良いのですが、コリント教会の信者たちは決定的な間違いを犯していました。
「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と言いながら、自分たちが一体誰によって結びつけられているのか、教会の頭が誰であるのかを見失っていたのです。(「キリストに」と言っていた人も、このパウロの書き方からすると、イエス・キリストを正しく見ていなかった人たちでしょう)
私たち教会を一つに結びつけているもの、それは人間の誰か優れたリーダーや先生ではないのです。パウロでもなく、アポロでもなく、ケファ(ペトロ)でもないのです。
私たちを一つに結びつけるもの、それはキリスト以外にあってはならないと、聖書は言うのです。そして、そのキリストとは十字架につけられたお方です。

十字架につけられたキリストが私たちを限りなく愛し、私たちの罪を赦してくださった。その恵みによって私たちは救われ、その恵みによって私たちはこうして結ばれているのです。
だから私たち教会は「心を一つにして固く結び合う」(10節)のです。キリストによってです。

1コリント12章12~13節をお読みします。
身体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。
教会に繋がるキリスト者であれば、個人的に自分の信仰だけが成長するということはありません。なぜなら、私たちはキリストによって結びつけられた一つの体であるからです。

最初に“個人主義”という言葉を使いましたが、現代では非常に個人主義的な考えが発達して、お互いに干渉し合わない、他人のことは放っておくから、私のことも放っておいてくれ、という考えが強いかもしれません。
しかしキリスト者同士はそうであってはならないのです。“お互いに適度に距離を置いて、まあ適当に”という関係であってはならないのです。
なぜなら私たちはキリストを頭とする一つの体の部分部分だからです。同じ体のどこか一部だけが、別の部分とは離れて関係なく成長する、ということはあり得ないのです。
確かに、他人の自由や独立性が侵害されるような干渉は許されませんが、キリスト者の集まりは「心を一つにして固く結び合う」ものであり、お互いが共に成長することなく、誰か一人だけが成長することはない、ということを覚えたいと思います。

さて、マタイ28章19~20節を読んでみましょう。「宣教大命令」です。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 「すべての民」とは、当時のユダヤ民族を越えたあらゆる民族のことです。今、私たちの教会、BIBCには色々な国の人たちが礼拝に出席してくださっています。素晴らしいことです。

海外の方に限らず、日本の方も、特にこの地域に住む色々な人が来ることのできる教会に私たちの教会がなることができればよいな、と私は願っています。“すべての民をわたしの弟子にしなさい”とは、“福音は全ての人に伝えられねばならない”ということだからです。
そして私たちキリスト者は日々生活をしています。私はそのことを意識して、毎週礼拝の最後の祝祷で、「今週それぞれの生活の場へと遣わされていく私たちひとりひとり」という言葉で祈っています。
 
たとえ、聖書を持って遠く海外まで宣教旅行には行かないとしても、私たちが教会に繋がって礼拝を大切にし、教会の中での兄弟姉妹の交わりを喜んでいるのならば、その喜びは私たちの教会の外での普段の生き方にも自然と現れるはずではないでしょうか。

 その私たちの生き方自体が伝道となるのです。私たちが教会の中で共に御言葉に聞き、お互いをイエス・キリストによって結びつけられた同じ体の一部として大切にし合うことで、互いの信仰が強められます。その教会から日々の生活に遣わされること、イエス様に従うことを生活の中で実践すること、それが伝道となるのです。
 最後に、今日の聖書箇所の言葉をもう一箇所読んで宣教を終わりにしたいと思います。
1コリント1章17節
「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」
 「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではない」とパウロは言います。これは、バプテスマは信仰者にとって最終的な目標ではないということです。

 バプテスト教会では、バプテスマという儀式そのものによって人が救われるのではなく、聖霊の導きによってイエス・キリストを救い主と信じた信仰者が、これからイエス・キリストに従い、教会の一員として神に仕えていく決心を表明する、そのような信仰の応答的行為であると理解します。
 ですから、バプテスマを受けた私たちひとり一人も継続的に、主の弟子として成長し続けることが求められるのです。
 またパウロは“福音を告げ知らせるのに言葉の知恵によらない。キリストの十字架がむなしいものになってしまわないために。”とも言います。
わたしは牧師として、正しく神の言葉を語ることができるようにと祈り、できるだけの祈りと準備をして宣教に臨みます。そして牧師でなくても、キリスト者は福音を人に伝えるために、それぞれの言葉で伝道をすると思います。

しかし、どこまでいっても宣教の力強さは、人間の言葉の巧(たく)みさとか、話し方の技術とか、伝える人の人格などにはよらないのです。
 人にイエス・キリストを信じさせ、聖書の御言葉に私たちを従わせる力は、あくまで御言葉自身が持つ力であり、聖霊の力なのです。
 ですから私たちはあきらめずに、希望をもって福音を証し続けましょう。聖書の言葉がどれほど私たちを力づけるものであるか、イエス・キリストの限りない愛がどれほど私たちを慰め、私たち教会の一人ひとりを互いに結び付けているのかを、世の中に向かって証し続けていきましょう。
 キリストによって結びつけられた私たち教会の伝道の業が神に大きく用いられて、福音はきっと前進すると、私たちは信じてよいのです。
このファミリーキャンプを通して、お互いの絆を強め合い、私たちが共にいることの意味と喜びを、再発見できることを願っています。(酒井朋宏)