2017年5月30日火曜日


スケジュール

 




6月21日(水)聖書の学びと祈り会
10:3012:0019:3021:002
ヨハネによる福音書から学び、共に祈りの時を持っています。
次回(ヨハネによる福音書41節~15節)

■次週主日礼拝 6月25日(日)
合同礼拝 10:5012:15
礼拝宣教 「地の塩、世の光」
マタイによる福音書5章13~16節

宣教者 酒井朋宏

各会ミーティング 10001040
*主に年齢別に分かれた会です。どなたもご参加ください!
 (小羊会、少年少女会、青年会、女性会、男性会)
 国際青年科は通常通りの教会学校クラスです。

■フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF) 6月30日(金)

FFFは、毎週金曜日1900~から、当教会を会場にして開かれている

超教派クリスチャン、国際交流の集まりです。歌、ゲーム、信仰に関する

ディスカッションなど。教会に興味のある方、英語を通した国際交流に

興味のある方、皆さん気楽にご参加ください!

2017528日 宣教



創世記1章1~5

「闇に輝く神の光」

 

初めに神は天地を“そうぞう”された。

この文章をそのまま、例えば小学校低学年ぐらいのこどもに語ったとしたら、その子はその言葉からどのような状況を思い浮かべるでしょうか。

 “そうぞう”(SouZou)

もしもこどもであれば、または大人であっても聖書物語に馴染みのない人であれば、“創造”をもう一つ別の意味の日本語の“そうぞう”に理解する可能性はないでしょうか。神は天地を “そうぞう(想像:imagine)”された。

実はこれは私が考えたことではなく、ジョナサン・マゴネットというユダヤ教のラビ(rabbi)から聞いた話です。マゴネット先生は西南学院大学の神学部の客員教授として、毎年来日され、神学部の学生たちに旧約聖書についての講義や講演をしてくださっています。ちなみに、このマゴネット先生は「キング・ダビデ」という映画でリチャード・ギアと一緒に映画にも出ているそうです。私はまだその映画を見ていませんが、リチャード・ギアが演じるダビデの結婚式の司式役で少しだけ出ているそうです。そしてその映画で、聖書の知識に関するアドバイザー役も務めたと言っていました。マゴネット先生はイギリスのユダヤ人家庭に生まれ、ご自身のことを“自分はイギリス人”だと認識しておられますが、20歳ごろからヘブライ語を学び直し、正式にユダヤ教のラビの資格を取り、ロンドンにあるレオ・ベック大学Leo Baeck Collegeというユダヤ教の神学校の学長も務められました。先生は日本語も学ばれており、“そうぞう”という日本語が、“創造”と“想像”と両方の意味があることを知り、創世記の冒頭部分を「神は天地を“想像”された」と読めば、それはまた別の面白い意味を持つ、とおっしゃっておられました。

 確かにそれは面白い“想像”ではありますが、しかし、神はこの世界をただ“想像”されたのではありません。イエス・キリストの神は、この世界をお造りになりました。神は世界を“創造”されたのです。この「創造する」を意味するヘブライ語の動詞“バーラー”(ba-la)は、神にしか使われない動詞です。人が何かを作ったりするときには使われません。このことからも、聖書は、世界の創造は神にしかできない業である、と伝えているのです。私たち人間は、すでにある物を利用して何かを作ることはできます。

 しかし、何もない状態から何かを生み出し、それらに生命を与えて生かすことは神にしかできないことです。 この世界を無から創造することは神にしかできない、世界は神によって造られた。そのような信仰が創世記11節、聖書の冒頭の言葉には込められています。

 
そして、「初めに神は天地を創造された」というこの言葉は、私たちに、“あなたは何を信じて生きるのか?”と、人としての生き方の根本を問う言葉でもあると思います。それは、この世界は神によって造られたのであり、私たち生きる者はその生きる命の根拠を神に拠っていることを信じて、それを受け入れて生きるのかどうか、という呼びかけです。
世界の始まりがどうであったか、そういうことは一切考えないという生き方もあります。神様なんて信じない、もしくはいくら考えても確かには分からないのだから、分からないことはそもそも考えないという生き方もあるでしょう。または、この世は所詮ただの夢(想像?)のようなもの、少しでも楽しく生きていけばそれでいいんじゃないか、という生き方。そこまで刹那的ではなくても、世界の始まりとか、人生の目的とかそういうことは真剣には考えないという生き方です。そのような生き方ではなく、この世界と私たちの命をお造りになった創造主を認めて、そしてその創造主は何らかの目的をもってこの世界とそしてこの私をも造られたはず、そう信じて生きるかどうかを決断するように迫る言葉が創世記の最初の言葉です。


 もう最初から結論ですが、聖書は“あなたの造り主を覚えなさい”、この世界と私たちの命は神がおつくりになった、その創造主を知って生きていくようにと、よびかけます。

 コヘレトの言葉の121節にこうあります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」

創世記一章はそれにしても不思議な物語です。クリスチャンでない人には、クリスチャンがこんな非科学的なことを信じていることが、とても不思議に思えるかもしれません。見てもいないのになぜこんなことが分かるのか?そうです、誰もこの世界の始まりの様子を見た人はいないのです。この創世記を書いた著者も、神がこのように世界を造った様子を傍にいて見ていたわけではありません。しかし、創世記を書いた著者は、(それはおそらく一人ではありません。創世記は、長い年月をかけて、一人ではなく多くの信仰者達によって伝えられ、徐々に完成された物語です)彼らが与えられた信仰の目を通して(見た)、理解した世界の創造を記したのです。目には見えなくても、信仰者にとって確実なことは、この世界は神によって造られた、ということです。私たちクリスチャンがすべきことは、たとえこの創造の物語が、非科学的であり証拠を示して確認することが難しいとしても、“世界は神によって造られた”という信仰に生かされることが、そしてその神とはどのようなお方であるのかを知って生きることこそが、人を真に人らしく生かすのだということを、自らの生き方で表すことです。

 

 2節に「地は混沌(formless and empty)であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた」と書かれています。地は混沌である、むなしい(formless and empty)。私たちの周りの世界が、また私自身の心がこのように形がなく不安定で、目的もなくむなしい、そのように思える時がないでしょうか。これは神のいない状態です。または私たちが神を受け入れない場合、世界がどのように感じられるのかを表している言葉です。土台がないので不安定です。どこに立っているのかの確信がありません。すべてに目的も何もないのですから、空虚です。イエス・キリストを知らずに生きていたころの私は、自分を支える土台が何であるかがはっきりとしない、不安定な生き方をしていたと思います。いや、不安定であることにさえ気づいていなかったかもしれません。


 意識的に、または無意識的に、何かを自分の拠り所にしようとしていたと思います。それは自分の持っている能力、経験、自分で建てた将来への計画や夢、お金?または自分自身?そういったものだったと思います。聖書の中で、キリストの故にそれ以前の生き方を完全に変えられ、それまで持っていた人間的には良いと思えるものを、神のすばらしさの前に完全に放棄した人物がいます。


それはパウロです。



フィリピ356

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」ユダヤ教徒として、生まれも育ちも知識も教養も、熱心さにおいても非のうちどころがなかったパウロ。今風に言えば完全な「勝ち組」だったはずのパウロも、つづく7節でこう書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」。パウロは、どれほど熱心に律法を学び、それを守っても、それらによっては本当の平安を得ることができないと思っていたのでしょう。自分にとって確固とした土台となるようなものを感じられなかったのだと思います。しかし、彼は復活の主イエス・キリストと出会い、最後はおそらくローマで殉教しただろうと言われますが、イエス・キリストのゆえに、彼は、困難は多くとも、確実でそして幸福な人生を生きました。神のない状態、土台がなく目的のない状態の中に、神の光が差し込みます。3節「神は言われた “光あれ”。こうして光があった」神の言葉によって闇の中に光が起こされました。「深淵」(deep)という不気味な状態も、神の造られた光に照らされてはっきりとその姿(正体)を現します。闇の中に光を起こされた神の言葉は、私たちの心の中の闇にも大いなる光をともされます。闇の中で先の見えないような状態であっても、神の言葉によってその中に光が差し込むのです。

この創世記が書かれたのは、バビロン捕囚の時代であったと言われます。イスラエルの民が強国バビロンに捕囚として捕らえられていた時代です。故郷から遠く離れた異国での捕囚生活のなか、ユダヤ人たちは厳しく希望のない生活をしていました。しかし彼らは、そのような苦しい境遇の中にも、神の“光あれ”という声を聞いたのです。信仰の耳によってその声を聞いたのです。闇の中に神が一声を発してくださいました。神の慈愛に満ちた力強いこの一言を、今の私たちはどのように聞くことができるでしょうか。


今は、神の言葉、そして神の光はイエス・キリストを通して私たちに与えられています。私たちの心の中の闇も、または私たちの周りの闇と思えるような状況も、神の言葉であり光であるイエス・キリストを私たちが受け入れていれば、それがどんなに深い闇であっても私たちを支配すること決してない。聖書はそう伝えています。


新約聖書のヨハネによる福音書は「初めに言があった。」で始まります。この「初めに言があった」と、創世記の神の「光あれ」という言葉は、同じ一つの真実を指し示しています。神であるイエス・キリストは世の初めから存在しており、イエス・キリストの言葉によりこの世界は創造されて、始まったという真実です。

 創世記145

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である

神の言葉によってできた光に照らされたその日から、私たちの本当の命の日は始まる。それが「第一の日」という意味です。今日は日曜日です。一週間の最初の日です。先週一週間それぞれの重荷を背負って、重い気持ちで今の礼拝の時を迎えておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私たちは神を礼拝することによって、神の言葉を頂いて、神が見て“良し”と言われた光の中に生きていく思いを新たにさせられます。神が“良し”とされた光が私たちに注がれている。光とは、即ち、み言葉です。

「あなたの御言葉は私の道の光」と詩編の著者は述べています。(詩編119105

 聖書の御言葉が闇を照らし、そして私たちの進む道を照らしだすのです。 
今日の最後の5節には「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とあります。

ユダヤの時間では、一日は日没から始まります。例えばクリスマス・イブというのは、クリスマスのイブニング(晩)という意味です。1224日の日没の時点で、すでに1225日が始まっていると考えるからです。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神がこのように一日の秩序を定められました。夕方という時間をみなさんはお好きですか?皆さんは一日のうち、どの時間が一番お好きですか。季節によっても違うかもしれませんが、一日の業を終えて、ほっとする時間。家に帰る時間。夜にもまだ仕事はあるかもしれませんが、昼と夜の間の時間は、つかの間の休息の時間ではないでしょうか。そして夜に人は休みます。夜は私たちが休むときであり眠る時です。そのような生活時間の秩序を神が定めてくださったのです。

 創世記は神の創造の業が6日間で完成されたと伝えているでしょうか?

 違います。

創世記2章の初めに「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」と書かれます。神が7日目に休まれたことを含めて「天地万物は完成」されたのです。私たち人間も、ただ活動的であるだけではなく、働きを止めて休むこと、憩う(いこう)ことが必要であり、それも生きる目的の一部であるのです。皆さん、一週間の生活の中で、ほんとうに忙しく自分の時間の無い方、余裕の無い方もいらっしゃると思います。それでも、私たちの生きる時間も主がお造りになって、私たちはいつも主の許で休むことができるのだということを、しっかりと覚えたいと思います。

私たちは日曜日に礼拝を捧げ、この礼拝から私たちは新しい一週間を始めます。この礼拝から、それぞれの生活の場へと遣わされていきます。そして一週間の生活を終え、来週また教会へ神を礼拝するために戻ってきます。それはなんの意味もないただの繰り返しではありません。見た目には同じことの繰り返しで変化のないような生活に見えたとしても、神の言葉に生かされ、礼拝を中心に生きる生活は、土台のしっかりとした意味のある生き方となります。

最後に創世記131節をお読みします。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」

神はご自分のお造りになったものをすべて “極めて良し”と見られました。その世界の中に私たちは生きています。この世界を作られた神を認めて、神が造られた秩序の中に、神様の意志と慈しみを覚えながら、今週の日々もまた一日一日を歩んでまいりましょう。混沌とした世界に見えても、先の見えない不安に駆られるとしても、この世界を創造され、闇の中に光を起こされた、神の絶大な力と深い愛に委ねて、生きていきたいと思います。(酒井朋宏)

 

2017年1月30日月曜日

「私にとって難病は恵みです」


1月29日 主日礼拝の宣教に神戸在住のデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えている保田広輝兄を迎えての礼拝を行いました。素晴らしいメッセージだったので、保田広輝兄の了承を得て、当教会のホームページで公開することにしました。

「私にとって難病は恵みです」
聖書:ヨハネによる福音書1515~16
保田 広輝兄


私は保田広輝と言います。生まれた時から、不治の難病のデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えています。この難病は、遺伝子の異常のせいで、どんどん体の筋肉が壊れていきます。筋肉が壊れると、身体を動かしたり、呼吸したり、食事ができなくなる病気です。

今の私は呼吸することができないので、24時間ずっと、人工呼吸器で生きています。あと、手の親指だけしか動かせないので、食事もトイレも着替えも、ひとりでは身の回りのことが何もできないですし、やがて寝たきりの生活になります。

いま私は25歳ですが、4歳の時に、この難病を診断されて、当時は20歳までの命だと宣告されました。でも、私は難病だと知らずに、育てられたんですね。

幼い頃は、走ることができなかったし、手すりをしっかりつかまないと、階段を上ることはできなかったけど、自分はただ、運動神経がない、と思っていたんです。その気持ちは、9歳の時に車椅子生活になっても、変わりませんでした。大人になって、なぜ難病だと教えてくれなかったの?と両親に尋ねると、「20歳で死ぬなんて伝えられなかった…」と答えてくれました。

そして、両親はクリスチャンだったので、私は、生まれた時から教会に通っています。13歳の時に、神様を信じる決心の信仰告白をしたんですね。難病の現実を痛感したのは、大学の受験勉強に頑張っていた18歳の春からでした。私も主治医も、難病が悪化していることが分からず、1年間で5回も入院したんですね。

一日中、内臓の痛みと、嘔吐が止まらず、ものすごい息苦しさと、激しい頭痛のせいで、ほとんど眠れないので、毎日、意識がボーとなって、本当に死ぬかと思う日々を過ごしました。そのあいだも、受験勉強を頑張りましたが、息苦しさと頭痛のせいで、勉強したことを次から次に忘れていき、試験の点数はどんどん下がっていくので、努力が無駄になるのは辛かったですね。

このように苦しみながら、神様、助けてくださいと祈り続けました。ずっと苦しみながら、1年が経ってから、神様のお導きと母の努力のおかげで、スーパードクターがいる四国の病院のことを知って、その病院で、人工呼吸器を導入してもらってから、死にそうな状態から助けられました。いま振り返ると、本当に命の危険ギリギリのところだったので、神様が救ってくださったと思います。

ただ、人工呼吸器で生活するには、毎月診察を受けて、ドクターの管理が必要なんですね。そうするために、地元福岡の専門病院で、検査入院したときに、そこのドクターから、「やがて寝たきりになり、延命治療をしても、35歳で亡くなるでしょう」と余命宣告を受けました。心が引き裂かれる宣告でした。この時に、難病の現実を痛感したんですね。

その後、合格した大学に入学したけど、体調不良で、たった半年で、中退することになりました。それからは、自分を見つめ直す日々でした。人工呼吸器を使う体になったこと、余命宣告を受けたこと、体の痛みが激しいので、ベッドで過ごす生活になったことが、大きなストレスとなって、すごく暗い気持ちになったんですね。

毎日お祈りしていく中で、神様に叫びながら本音をぶつけました。なぜ35歳で死ぬ難病になったのですか!若くして死にたくないです!神様、お願いですから、難病を治してください、こんな苦しい状態で生きても、意味がありません!このまま死を待つだけの人生なんですか!と叫びながら祈り続けたんですね。
この時は生きている意味が分からなくて、人生に絶望していました。どうして私は健康になれないのか、35歳で死ぬのか、こんな難病では仕事も結婚もできない、神様、こんな難病だと何もできません、と絶望していました。

体が動かなくなって、若く死ぬ難病を抱えて、これからどうやって生きていけばいいのだろうか。 人工呼吸器を使わないと、命を維持できないから、明日死ぬかもしれない。大きな不安に支配される毎日を過ごしていました。

私には生きる意味が必要だったんですね。でも、神様に祈り続けていても、生きる意味が分からなかったので、苦しかったです。それでも、いつも聖書を読んで祈り、日曜日はいつも礼拝に行くことはやめなかったけど、神様の沈黙を感じる日々だったので、辛かったですね。

そんな中で、オーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という本を読んで、あることを学んだんですね。

それは、意味がない苦しみが絶望である、苦しみに意味を見つけられなければ絶望となる、苦しみに意味を見つけられたら希望となる。苦しみがあるから、不幸だって簡単に考えるのではなくて、苦しみに意味を見つけられたら、人生が希望に変わる、ということを学びました。

そして、どのような苦しい人生でも、人生に意味を見つけることができれば、希望を失うことなく、生きていける、と思えるようになったんですね。それからは、神様が生きる意味を与えてくださる、と確信して、神様の語りかけを待ち続けました。

それから、余命宣告から10ヶ月が経って、次の聖書の言葉が心に響いたんですね。

【エゼキエル書 2章8節】
「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。

あなたは反逆の家のようにそむいてはならない。

口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」

このみ言葉を通して、いつも神様の言葉である聖書を読んで、いつも神様にお祈りしていれば、神様は、私の心に語りかけてくださる、私の心を変えてくださる、絶望から救ってくださる、と信じられるようになりました。

そして、余命宣告から1年半が経って、次の聖書の言葉を通して心が変えられたんですね。

【ヨハネによる福音書 15章15、16節】
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

わたしがあなたがたを任命したのである。」

私は望んで、難病に生まれた訳ではないけど、神様から任命を受けて、生まれつきの難病に選ばれた、と感じたんですね。神様が難病の私を造ってくださって、難病の人生を生きなさい、と神様に任命されたからこそ、私は生まれた時から、難病の人生にチャレンジしているんですね。

先ほどの聖書の言葉を通して、私は難病の自分を受け入れることができました。それまでの私は自分を土台にして生きていたんです。ひとりで生きていける健康な自分、弱さのない自分、社会で成功する自分、そういう自分を目指していました。

だから、こんな難病になった自分はダメな人間だ、何もできない自分は生きる意味もない、と自分の価値を自分で決めていました。だから、ずっと辛かったんですね。

でも、先ほどのみ言葉を通して、神様の愛を実感できました。神様が生まれつき難病の私を造ってくださった、私は神様から望まれて生まれてきた、私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、と神様の愛を感じることができました。

自分の価値を自分で決めたら、辛いだけです。でも、苦しみの中にあっても、み言葉を通して、自分を捉えていくことで、ありのままの自分を受け入れていけますし、聖書と祈りを通して、神様から愛されていることを感じられるから、どんな人生でも、生きる喜びが湧いてくるんですよね。

そして、難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思ってました。でも、気付かされたんですね。 私にも神様から大切な命が与えられているって。命だけじゃないって。神様から私たちに与えられている最高のプレゼントは、イエス・キリストの愛だって。十字架で命を犠牲にしてまで、罪人の私たちを、救ってくださったイエス・キリストの愛が最高のプレゼントなんだって、気付かされたんですね。

神様のひとり子であるイエス・キリストは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、十字架で死んでくださいました。そして、死を打ち破り、三日目に復活されたのです。

イエス様が自分の罪のために死なれ、お墓に葬られて、三日目に復活されたことを信じる人たちは、罪と死の苦しみから救われます。罪ゆるされて、死んで復活し、神様と共に生きる永遠の命が与えられるのです。

神様は私たちを小さなものとは思っておられません。神様にとって、私たちがどれほど大切な存在であるかは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、神様が、何よりも大切なひとり子であるイエス・キリストを十字架につけるほどに、私たちを愛されたことで分かります。

私たちは罪人であるにもかかわらず、イエス様の尊い血潮によって罪ゆるされて、神様の満ちあふれる愛の中に引き寄せられているのです。このイエス様の愛は、能力や行いに応じてではなく、イエス様を信じる人たちに、無条件に与えられています。

私はイエス様の愛に改めて気付かされてから、このように、神様に祈りました。「難病の私には何もありません。何もできません。神様におささげできるものが何もありません。この命しかありません。私の人生を神様におささげします」

難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思っていました。でも、イエス様の愛が無条件に与えられているのだから、自分が神様のために生きるのも、神様に人生をささげるのも、無条件だ、と教えられたんですね。

自分には何もない、何もできないと思っても、神様は人生をささげる決心を喜んでくださって、その人にしかできない使命と、すべての必要なものを与えてくださるんですね。

私は神様に人生をささげる決心をしてから、「難病の人生を通して神様を伝える、難病の人生で、育まれる信仰と希望を伝える」と、難病クリスチャンとして生きる使命を感じるようになったんですね。

それからは、少しずつ人生が変えられていきました。まず神様のお導きで、私の難病では世界トップレベルの病院で治療できるようになってから、寝たきりの生活から解放されました。そして、神様の不思議なお導きにより、各地にある多くの教会で、礼拝に呼んでいただき、神様の証しをする機会がたくさん与えられるようになりました。本当に感謝です。

私はいまこう思います。人間が生きる意味は、自分や他人が決めるのではなく、自分を生かしておられる神様が決めてくださる、と。難病の私であっても、神様から使命を与えられているからこそ、私は生きる意味があるんですね。生きる喜びがあるんですね。

いま振り返れば、私の挫折も、難病の試練も、死にかけた経験も、神様のご計画だったんだ、と思います。私がイエス様を信じて、神様の子どもとして生まれ変わるために、神様から与えられた使命のために、神様がこの難病をプレゼントしてくれた、と感じています。だから、私にとって難病は、恵みの試練なんですね。私は難病だからこそ生きる意味があるんですね。

こうして、私は難病の人生でも、生きる意味を見つけることができました。でも、生きる意味を見つけることができたのは、イエス様が与えてくださる復活の希望があったからなんです。

私は生きる意味が分からずに、絶望の日々を過ごしていました。でも、聖書を読んで祈りながら過ごしていくことで、神様は私を復活させてくださいました。

【ヨハネによる福音書 11章25、26節】には、このようなみ言葉があります。
イエスは言われた。

「わたしは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

イエス様は、死の力から復活された御方です。死の力に勝利された御方です。だから、イエス様が与えてくださる復活を信じている人たちは、どんなに人生に絶望しても、神様が必ず復活させてくださるから、絶望する勇気さえ持つことができるんですよね。絶望しても大丈夫。神様が必ず復活させてくださるから。

たとえ、私は若く死んでも、栄光の体に復活して、天国で、神様と共に、永遠に生きることができるから、大丈夫なんですよね。神様との永遠の交わりが、人間にとって、最高の幸せなのですから。

どんな試練があっても、イエス様を信じた時から、もう復活は始まっているんですね。私の体は、死に向かって、ますます弱くなっているけど、私も永遠の命へと、復活し始めているんです。神様の子供として、永遠の命に生まれるところなんですね。

私は難病クリスチャンとして生きる使命があるので、これからも神様を信じる素晴らしさを伝えていきます。残り余命9年の短い人生で、どれだけのことができるか分かりません。でも、天に召される日まで、神様のご用に用いていただけるように祈っています。

最後に、クリスチャンの水野源三さんの詩をお読みします。水野源三さんは、重度の脳性麻痺で、手足を動かすことも、話すこともできなかったけど、唯一動かせる目をまばたきしながら、多くの信仰の詩を作られました。

水野源三さんの【苦しまなかったら】という詩をお読みして、終わります。
 「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら神様の愛はあらわれなかった」

2017年1月25日水曜日

【お知らせ】


次の主日礼拝(1/29)は、保田広輝さんを特別宣教者としてお迎えしての礼拝になります。同僚やお友達、お知り合いの方もお誘いの上、みなさん是非お越しください!!